シリーズ「会員往来」(第12回)〜世界一周クルーズに参加して〜
シリーズ「会員往来」(第12回)〜世界一周クルーズに参加して〜
Correspondence: Joining a Round-the-world Cruise
苅谷 勇雅 Yuga KARIYA
日本イコモス広報委員会からこの10月はじめに、シリーズ「会員往来」への寄稿のお誘いを受けた。私と妻はこの4月下旬~8月上旬の間、107日間の世界一周クルーズを体験した。妻が10数ページの旅行記をまとめたので、近しい方々にPDFで配付させてもらったところ、私に寄稿のオファーをいただいたわけである。ここでは、建築・都市・世界文化遺産に重点を置きながら、このクルーズ体験をご披露したい。このクルーズは私たちの早めの喜寿記念ともなった。
※web上での表示にあたり画像の質が大幅に落ちてしまいましたので、ご寄稿いただいた元原稿を以下よりダウンロードしてお読みください。世界一周クルーズに参加して〜苅谷勇雅
1. クルーズの概要と特色
1) 概要
数年前に「PEACE BOAT 世界一周クルーズ」に申し込んでいたが、コロナ禍で延期延期となり、私たちはようやく今回の第120回クルーズに参加できた。ベランダ付きの二人部屋だったが、早期の申込みがそのまま生きたので、比較的安価に乗船できた。しかし、不安定な国際情勢のためスエズ運河航行ができず、地中海へは入れなかった。このためキャンセルも多くあったという。結局、台湾・中国・韓国その他も含めて1700人の乗客を乗せて、Pacific World号77,441トンは4月23日に横浜を、次いで24日に神戸を出港した。乗客は外国人が数百人で、残りは日本人だった。
約半数が一人参加で相部屋だったという。私と妻はバルコニー付きの部屋を選んだ。乗客年齢は平均すると70代半ばだそうだが、青年層や幼児も相当いた。107日間の航海で、18カ国21の港に寄港し、各地で見学や交流を楽しんだ。

船の最初の寄港地は中国の香港の隣の深圳、その後シンガポール、インドの沖を南下して南アフリカへ。南アフリカを経て北上しヨーロッパ、さらにアイスランドへ。北極圏にタッチして大西洋をアメリカ合衆国、そして中南米へと南下。パナマ運河を通過して太平洋を再び北上。カナダ、アラスカを経て、アリューシャン列島に沿うようにして日本へ。世界一周、合計約6万キロの旅だった。
2) 特色
PEACE BOATクルーズは、国際NGO PEACE BOATが船会社、旅行会社と提携して、年3回の地球一周クルーズと短期の国内クルーズを1983年から催行しているものである。地球一周クルーズは現在121回目が航行中であり、12月中旬には122回クルーズが出航する。3年後の131回クルーズも募集がはじまっている。どのクルーズも平和・人権・環境保護・国際交流等をテーマとしており、他の娯楽中心の豪華クルーズとは全く異なる。これまでに9万人以上が乗船したという。
船上では以下に記すように様々なイベントが行われた。乗客は前夜に部屋のポストに入れられる「船内新聞」を見て、翌日のイベント等に参加する。右はある日の船内新聞の抜粋である。通常は4~6ページに細かい字でイベントがぎっしり書き込まれてある。
(1) 「水先案内人」等による講座・イベント
「水先案内人」と称して、世界各地の識者やジャーナリスト、パーフォーマー、芸術家、寄港地の専門家、活動家グループ等が途中から乗船し、興味深い数回の講義や説明、パフォーマンス等をして、次またはその次の寄港地で降りていく。それらの水先案内人は約40人・グループを数え、その講座・公演は1日に数イベントとなることもあり、私たちは大学の授業を受けるがごとく、キャンパスではなく全長220m余の船内を走り回った。数百人収容の2つのホールがしばしば満員となった。水先案内人の内、外国人・グループは22であった。これらの講演などは、話者が日本人を含めて各国にわたり、また乗客の国籍もいろいろなので、ボランティアの同時通訳で日本語、英語、中文、韓国語で伝えられた。講演等のテーマは多岐にわたり、たとえば「海のシルクロードと一帯一路」加藤千洋、「アフリカは本当に貧しいのか」品川夏乃、「世界遺産から読み解く地球と人類の歩み」吉岡淳、「パレスチナの今」ルーシー・ヌセイベ、「戦時性暴力を許さない:声をあげるウクライナの女性達」SEMAウクライナ等々多数あり、書き切れない。駐日ジャマイカ大使のショーナ・ケイ・リチャーズさんの「ジャマイカ 核兵器廃絶への力強い声」や、駐日ベネズエラ大使の妻であり、ソプラノ歌手であるコロンえりかさんの「手歌のワークショップ」やすばらしい歌声も忘れられない。関連のダンスや演奏もたびたびあった。昨年ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の人たちによる訴え・報告・展示などもあった。

ニューヨークにアトリエを持ち活躍している日本人の壁画ペインター、DRAGON76氏も水先案内人として乗り込んできた。彼は船上で大きな2枚の壁画をライブペイントで描き上げた。船上オークションで販売し、その一部は被災地への寄付にあてられた。ニューヨークではグランド・ゼロの地域に巨大な壁画を描いているほか、あちこちで彼の作品を見た。彼は滋賀県日野町の出身で、たまたま私の修士論文のテーマの一つの町だったので、夫人も加わって盛り上がった。
世界の反戦や平和、平等、そしてアートに関わる話題が、当事者によって直接語られ演じられるのは、実に印象深く、感動的であった。そしてこうした水先案内人たちとロビーや甲板、食堂など船内で気楽に交流できることもあり、得がたい機会であった。

(2) 乗客による自主企画
「自主企画」というのは、乗客がまさに自主的に企画し、実行するものである。歌の会、囲碁教室、ヨガ、タヒチダンス、楽器練習、手話、〇〇県人会等々。中には元JICA隊員のザンビアでの体験や世界遺産や建築のリノベーション等についての講義もあった。これらはもちろんすべて無料・無報酬だ。
船内では朝6時頃~夜11時過ぎまでさまざまなイベント等が行われる。例えば5月11日は前述の水先案内人の講座等も含めて全部で116件のイベントがあり、このうち自主企画が40件、5月29日は全部で98件で、このうち自主企画が36件であった。自主企画を実行したい乗客は、数日前に募集される場所と時間枠の争奪に必死になる。私はくじ引きやじゃんけんに弱く、なかなかいい場所、時間がとれなかったが、結果的には13回の自主企画(講座)を実施できた。私のノートパソコンのハードディスクには講座の材料となるものは一定程度あったが、あらためてのパワーポイント作成にかなりの時間を要し、いつもラウンジのテーブルでパソコンにへばりついていた。

私は「文化遺産の保存と活用」をテーマに、日本と世界の文化遺産についての講義を行った。一定の人の関心を集めることができ、それなりに満足している。京都府伊根町の舟屋については、乗客の一人で伊根で宿を営んでいる女将さんとコラボで2回発表できたのも楽しかった。

なつかしのメロディーを夫のギターで妻が歌い上げる歌声喫茶「ひまなスターズ」は大人気で、いつも多数の人が集まり、皆声を張り上げていた。この80代のご夫婦は、ほぼ毎日自主企画の歌声喫茶を開いていた。ご夫婦はPEACE BOATにこれまでに10数回乗っているとか。このほか寄港地の事前の詳しい案内講座をほぼ毎日実施し、多くの乗客から頼りにされていた元教員もいた。どちらも場所、時間を選ばず、他のイベントの隙間をうまく利用していた 。

(3) 盛り沢山のイベント
こうした水先案内人による講義や自主企画だけでなく、船内では、プロの音楽家によるギター、カルテット等のライブミュージックが絶えず流れ、朝のラジオ体操、ヨガ、ズンバ、そして英語、中国語、韓国語、インドネシア語等の語学講座、浴衣を着ての縁日や盆踊り、運動会、仮面舞踏会、ファッションショー、歓迎会、誕生会、楽器演奏会、国際演芸会、星空・プラネタリウム鑑賞等々も行われた。楽器を使う演奏会等のために、ウクレレなど持参した楽器や船内で購入した楽器で朝早くから練習にいそしむ乗客も多数いた。琴やマリンバ、チェロ、太鼓等の大型楽器を持ち込んでいた人がいたのにはびっくりした。和服を10枚も用意して船内や寄港地の街を着て歩く人もいた。

2. 寄港地の建築・町並みと世界遺産
前述のように、この107日間のクルーズで寄港地は21箇所で必ずしも多くない。また、スエズ運河が通れず地中海に入れなかったので、残念な気持ちもなくはないが、結果的にはけっこう楽しむことができた。
寄港地では、船会社が用意するオプショナルツアーを事前に申し込んだが、予約が取れない寄港地ツアーもいくつかあった。また、料金がかなり高額だったので、思い切ってほとんどのオプショナルツアーをキャンセルし、船上で仲間を募って、ネットで次の寄港地の現地ツアーを予約した。現地ツアーの個別申込みは危険で料金が高いことがあると聞かされていた。大手のネットツアー会社を通じて数人から10人程度で数時間から一日間の観光タクシー(ミニバス)を申し込み、結果的には安全かつ快適な旅ができた。ドライバーに行きたいところを乗車中にも指示できるし、停車・休憩なども自由にできたので、効率的であった。費用も船の旅行会社のオプショナルツアーの半額以下で済んだ。
さて、寄港地では多くの興味深い自然、建物、都市を訪れることができた。世界自然遺産・世界文化遺産に登録されている多くの場所にも行くことができた。以前に訪れたことのある都市等(ハロン湾、シンガポール、ブルージュ、ベルゲン、フラム、ニューヨーク、パナマ)もあったが、また違った観点で見ることができ、興味が薄れることはなかった。特に各都市に船で洋上からアプローチするというのは、港や街の新たな風景を見ることができる特別の体験だった。以下、主な寄港地の様子を抜粋で紹介する。
1) ポートルイス(モーリシャス)
5月14日に訪れたモーリシャスは、マダカスカルの東、インド洋に浮かぶ島国である。ここには2つの世界文化遺産があるが、どちらも負の遺産と位置づけられよう。

世界文化遺産:ル・モーンの文化的景観(Le Morne Cultural Landscape)はモーリシャスのインド洋に突き出た半島に位置する。18世紀から19世紀初頭にかけ、東方奴隷貿易の中継地だったモーリシャスに住み着いた多くの逃亡奴隷マルーンがル・モーンの険しい岩山を隠れ場所としていた。洞窟や山頂に小さな集落を作って集団生活を営んだというが、1835年の奴隷制廃止時に解放を伝えにきた兵士を誤解して、多くの奴隷が身投げしたという悲劇が伝えられている。山麓の公園には慰霊の多くの石像等が並び、ここは自由を求めた奴隷の戦いと苦しみ、多くの犠牲を象徴する場所となっている。
世界文化遺産:アープラヴァシ・ガート(Aapravasi Ghat)は首都ポートルイスの港に面した位置にあり、約50万人の「契約労働者」がインドからここを経由して、島内の砂糖農園や南アフリカ、東アフリカやカリブ海に送られた場所という。石造りの倉庫や病院など1860年代に建てられた移民局関連建造物の遺跡が、この場所が世界中に広まった「契約労働」システム発祥の地であり、歴史に残る大規模な労働者の移住が行われたことを示し、グローバルな労働移動の始まりの貴重な証拠とされている。
どちらの世界遺産も奴隷労働、契約労働の厳しい過去を現代に伝えるものであり、私自身、今まで見たこともない種類の世界文化遺産に接して、言いようのない厳粛な気持ちとなった。
なお、私達は昨年、オセアニアのフィジー共和国を訪れたが、その人口の約4割弱はインド系の住民であるという。彼らはイギリス植民地政府のもとで1870年代末から1910年代後半にかけて移住してきたサトウキビ・プランテーションの契約労働者の子孫であることを知って、契約労働制の広がりに驚いた。留学中の孫のホストファミリーもインド系の人たちだった。街には今もサトウキビ畑につながる線路があちこちに残され、比較的貧しい感じのマーケットや住宅もめだった。一方では豪華な巨大リゾートホテルが並ぶ地区もあり、アイランドクルーズを楽しむ観光客も多かった。
2) ケープタウン(南アフリカ)

5月23日に訪れたケープタウンは見所満載の所だ。ケープタウン沖には早朝に着き、船上から朝陽に輝く荘厳なテーブルマウンテンを見ることができた。海抜1086mの頂上はほぼ平らで、そのまわりは急峻な崖になっている。頂上には大型のロープウエイで登った。頂上から眺める市街地、海の景観はすばらしかった。テーブルマウンテンは世界自然遺産:ケープ植物区保護地域群の一部を占めており、世界でもっとも植物種密度が高い場所の一つとされている。
ケープタウンではこのほか、喜望峰、ケープポイント、ペンギンコロニー等を見学したが、市内中心部のカラフルな町並みのボ・カープ地区も訪れた。

ここは18世紀にオランダ東インド会社に連れてこられたマレー系奴隷が住み始めたところで、解放後、住民たちがはじめて建てた自宅をさまざまな色で塗り、自由を表現したところから、鮮やかな色彩の街ができたという。1760年代に建てられたケープ・ダッチ様式の住宅を博物館としたボ・カーポ博物館がこの地域の歴史文化を示してくれる。
この町に建っていた看板によると、この地域はHPOZ(Heritage Protection Overlay Zone)に指定され、開発行為や現状変更行為は市の許可が必要で、かつコミュニティの了解も必要だとのこと。なお、市条例では60年以上経過した建物は「歴史的建造物」となるという。この町は現在は観光地にもなっているが、南アフリカの多文化共生と植民地・奴隷制度の歴史を物語る重要な地域である。ともあれ、カラフルな「町並み保存地区」には驚かされた。
3) テネリフェ(スペイン)

6月4日に寄港したのはスペインのテネリフェ島。スペインと言っても、モロッコと西サハラの沖合、カナリア諸島の小さな島である。スペイン最高峰のテイデ山(3,718m)が海底数千mから噴き上げて形成された火山島で、海洋島火山として世界最大級という。
世界自然遺産:テイデ国立公園(Parque Nacional del Teide)は島全体の約10%の面積を占める。その雄大な姿、多様な地形と植物は海抜約2,000mの展望地からよく見ることができた。残念ながら頂上へと登るロープウエイは点検中とかで停まっていた。
世界文化遺産:サン・クリストバル・デ・ラ・ラグーナ歴史地区(San Cristóbal de La Laguna)は港から約500m登った高原地域にある、16世紀にスペインによって築かれた植民都市で初の内陸型の非要塞都市とされる。いろいろな様式の教会、塔、邸宅等が碁盤目状の街区に配置されている。壮麗な都市とはやや趣の異なる、落ち着いた感じの町であった。
4) ポルト(ポルトガル)

6月8日に訪れたのはポルトガル北部の港町ポルトである。18世紀以降ポートワインの積み出し港として重要視されてきたが、すでに14世紀には市壁が築かれ、以降商業都市として発展してきたという。
世界文化遺産: ポルト歴史地区、ルイス1世橋およびセラ・ド・ピラール修道院(Historic Centre of Oporto, Luiz I Bridge and Monastery of Serra do Pilar)は、多くの教会や歴史的建造物が展開する歴史的市街とドウロ川、19世紀のルイス一世橋の鉄橋等を含み、重厚かつダイナミックな都市景観を形成している。川に向けて下っていく階段を含む細街路と教会や駅の壁面を飾る青い装飾タイル(アズレージョ)はこの町に深みと派手やかさを与えている。ルイス1世橋を渡る際は、すばらしい展望と快い川風を味わった。ルイス1世橋は上層が川から85メートルもある二層構造で、現在は上層はメトロと歩行者、下層は車と歩行者が通行している。
5) ルーアン(フランス)
6月11日はフランスのル・アーブル港に寄港したが、まずルーアンに鉄道で直行し、その後ル・アーブルに戻った。片道約50分だ。

ルーアンの街は世界文化遺産に登録されてはいないものの、実に多くの歴史的建造物がある。まず、ルーアン駅が気にいった。1928年建設のRCを中心とする建築だが、石と装飾タイルも使ってアール・ヌーボー様式の美しい外観を示している。内部の高い天井を構成する鉄骨アーチもゆるやかに美しくデザインされている。高い時計塔とともに主要通りのアイストップ・ランドマークとして好ましい。
教会建築としてはルーアン大聖堂やサン・マクルー教会などがある。ルーアン大聖堂は4世紀のバシリカと11世紀に献堂されたロマネスク様式の聖堂を基礎とし、ここに1145年から1544年にかけて建設されたという。19世紀に加わった鋼鉄製の尖塔は151mもあり、登りたかったが現在構造補強や補修工事中であった。
ルーアンは19歳のジャンヌ・ダルクが1430年に火刑に処せられた殉教の地で、関連の記念碑、彫像が市役所内などに見られた。その火刑場となったビューマルシェ広場には現代建築のジャンヌ・ダルク教会(1979竣工)が建っている。そのステンドグラスは1520-30年頃の旧教会のものを使っているという。
これら市内の教会の周りやその参道、広場に面して数多くの3階建てのハーフチンバーの建物が建っていた。市内全部では2000棟を数えるという。それらはカフェや書店等として活用されているが、その多くが狭い街路に向かってオーバーハングし、老朽化し、かなり傾いている。どのような保存策がとられているのか気になるところだ。
6) ル・アーブル(フランス)
再び鉄道に乗ってルーアンからル・アーブルにもどった。ル・アーブルは第2次世界大戦で壊滅的に破壞されたが、オーギュスト・ペレによって1964年までに主要部が再建され、世界文化遺産に登録されている。世界文化遺産:オーギュスト・ペレによる再建都市(Le Havre, the City Rebuilt by Auguste Perret)

オーギュスト・ペレはわずかに残った歴史的建造物をていねいに保存・修復しつつ、2つの軸線を設定して整形の都市計画を実施した。新市役所を中心に新たな公共施設、商業施設、集合住宅等を鉄筋コンクリートのプレハブ工法、モジュール設計で、整然・迅速に建設し、都市を復興していったという。

1956年にペレによって新築された聖ジョセフ教会は高さ107mの塔を持ち、地上からも海上からも圧倒的な存在感を示している。無数の縦長のステンドグラスに囲まれた内観やそこから見上げる塔の内部はRC建築の卓越した構造美を見せてくれた。

また、ノートルダム聖堂は1639年に着工、19世紀初頭に完成した教会であるが、爆撃の災禍をかろうじてまぬがれ、大規模な修復とRCによる構造補強により現在の形によみがえった。様々な様式が混在する不思議な愛らしい建物であった。
海岸近くにはアンドレ・マルロー美術館があった。印象派のコレクションが有名でPEACE BOATの乗客も多数来ていた。ガラスを多用し、海の光を適切に取り入れる開放的なデザインで、1961年の建築とは思えないほどの現代的な魅力を持っていた。
さて、徒歩や新しいトラムに乗って街を回ると、美しく整った街で復興都市計画の傑作であることは実感できたが、一方では現代に生きる都市としてはやや古式に感じた。現代の都市ではあるが、ほとんどの建物が60年以上前に建てられたものであり、世界遺産としての制約の中で、今後のRCの経年劣化、設備・性能の更新要望、防災対策、そして市民意識の変化等にどう対応するのか、大きな課題を抱えていることだろう。一定のデザインコードに沿った新しい集合住宅の建設やコンクリートの修復技術の研究、省エネ改修の支援等がなされているようではある。
7) ブルージュ(ベルギー)

6月12日はゼーブルージュ(ベルギー)に入港したが、すぐに8人乗りタクシーでブルージュに向かった。
ブルージュは2回目の訪問で、前回は2005年に妻と義母で訪れ、今回同様、広場でのビールと運河クルーズを楽しんだ。以前と今回の写真を比べてみたが、ビールの味と共に、ほとんど何も変わっていないことに驚き、かつ感心した。
① 世界文化遺産:ブルージュの歴史地区(Historic Centre of Brugge)
② 世界文化遺産:ベルギーとフランスの鐘楼群(Belfries of Belgium and France)→ブルージュの鐘楼
③ 世界文化遺産:フランドル地方のベギン会修道院(Flemish Béguinages)

ブルージュには上記のように3つの世界文化遺産がある。①はブルージュの歴史地区全体であるが、②はベルギーとフランスの中世から近世にかけて建てられた全56件の鐘楼群で構成され、ブルージュにはその代表とも言える「ブルージュの鐘楼」がある。
ブルージュの鐘楼は、歴史的市街地の中心、マルクト広場に面する高さ83mの塔で、1240年から建設され、再建、増改築を経て現在の姿となっている。中世都市が封建領主から自治権を得た証しとして建設したものという。366段の石段を登った最上部には鐘とそれを鳴らすカリオンの装置があり、歯車やワイヤーがめぐっている。また、オルゴールのような大きなドラムの自動演奏装置もあった。その高台の眼下には一面に中世の町並みと運河が広がる。
ただ、その先に、多くの風力発電用風車が並んで見えるのは残念だった。世界遺産のバッファゾーンとの関係が気になる。ゼーブルージュの港からブルージュの町までの沿線にも多くの風車が建っていた。実はゼーブルージュの港に到着するかなり前から、北海の洋上に無数とも言える風力発電の風車が並んでいて驚いた。北海は水深が比較的浅く、風が強いので定置式の風車に利点があり、沿岸各国が開発を急いでいるという。
涼風に吹かれながら、快速の運河クルーズで岸辺の風景、美しい建物群を楽しんだ後、ベギン会修道院を訪れた。このブルージュのベギン会修道院は、③世界文化遺産:フランドル地方のベギン会修道院を構成する13の修道院の代表的なもので、1245年の創設以来女性による自律的な信仰共同体として敬虔な生活の場を維持してきたもの。若緑の樹林の中庭を囲んで白壁の住宅や修道院の施設が並び、美しくも静謐な環境を湛えていた。ここも、再訪に足る魅力を保っていてうれしかった。
8) リューベック(ドイツ)
6月14日朝6時にハンブルク港に到着した。ハンブルクは北海の海岸線からエルベ川を遡ること100kmにある。ヨーロッパ最大級の河川港というが、77,000トンのクルーズ船で訪れて、その大きさや機能に驚く。さらに私たちの船より大きいクルーズ船も横を航行していた。これこそ内陸都市のハンブルクを発展させた源泉であろう。見わたす限りの広い港をコンテナ船、クルーズ船等が充満し、行き交っていた。造船業も盛んなようである。
私たちはハンブルク港に到着後、歩いて地下鉄駅へ。そしてハンブルク中央駅から電車で北東に向かい、リューベックに約50分で到着した。
世界文化遺産:ハンザ同盟都市リューベック(Hanseatic City of Lübeck)

リューベック中央駅は北ドイツの伝統と20世紀初頭の近代建築が融合した特色ある建築である。赤煉瓦に白石でアーチ窓等を縁取り、随所にアール・ヌーボーの装飾を加えた堂々たる駅で1908年の竣工である。赤煉瓦に白石の配置はどこか東京駅を彷彿とさせる。ちなみに東京駅は1908年着工、1914年竣工とほぼ同時代で、規模は異なるものの当時の鉄道建築の同様の潮流にあるとも言える。
この中央駅は旧市街地の入口にあるホルステン門と軸を成している。ホルステン門は1469年~77年建築の煉瓦造ゴシックの重厚な建築でかつての市壁の一部を成し、リューベックの繁栄と威厳を示している。現在は博物館になっている。この門を含み、この東部の2つの川に囲まれた米粒型の市街地の大部分、約81haが世界文化遺産に登録されている。ホルステン門のすぐ東側にある「塩の倉庫―ザルツシュパイヒャー」は16-18世紀に建てられた6棟の切妻造り煉瓦倉庫で、塩の保管・取引に使用された。風雪に耐えた個性的な外観は、確かに長期間にわたってリューベックの繁栄を支えたきたことを物語っている。
リューベックの市役所は1230年から建設が始まり、煉瓦ゴシック様式を基本とし、ルネサンス様式など様々な要素が加わって、マルクト広場に面して華麗な外観を示している。内部も素晴らしい。ハンザ同盟の中心として象徴的な建物である。
聖ペトリ教会は13世紀の初頭の創建というが、第2次世界大戦で大部分が焼失し、現在は塔が展望台やイベント施設となっている。その展望台からの眺望はすばらしい。市役所や教会が歴史的市街地の中で高く、際立っている。また、周りを囲む豊かな川の景観。特にトラーヴェ川の眺望はまさに優れた風景画である。遊覧船も浮かんでいる。ただこの展望台からも、遠くに発電用風車が多数並んでいるのが見えた。
9) ハンブルク(ドイツ)

時間の制約からリューベックの見学を早々に切り上げ、ハンブルクに戻ることにした。ところが、列車が途中で動かなくなり、冷房も止まったまま、2時間近く待たされた。ドイツ語以外のアナウンスはなく、事情がわからず、帰港時間までに船に戻れるかが心配になるほどだった。
後で知ったことだが、乗客が帰港時間に遅れても船は容赦なく出港してしまうという。混雑する港では、船の停泊時間が厳しく定められていて待つことができないのだ。同じ列車や後続の列車に多数のPacific World号の乗客がいたが、ようやく代替の列車に乗り込み、無事ハンブルク中央駅にもどることができた。
ハンブルク中央駅はリューベック中央駅とほぼ同じ20世紀初めに建設された。ヨーロッパ最大級の駅舎で、鉄骨アーチの大屋根がプラットフォームの巨大な無柱空間を実現し、妻面を大きなガラスで納めている。駅コンコースは天井が高く、明るく快適だった。駅舎正面の2つの塔や外壁面は大きな石を積み上げ、一部は細かな彫刻を施し、大都市の玄関口としての重厚な威厳を示している。
ハンブルク市役所は1897年に竣工した、様々な装飾を加えた列柱とアーチで構成される、豪華な宮殿のような建物である。前面のマルクト広場と一体となって、幅111mもの壮麗なファサードを持ち、中央には高さ112mの塔が建っている。面積も広く、部屋数はバッキンガム宮殿より多いとされる。まさに、リューベックと並んで、ハンザ同盟の中心とされたハンブルクの繁栄を象徴している。
世界文化遺産:ハンブルクの倉庫街とチリハウスを含む商館街(Speicherstadt and Kontorhaus District with Chilehaus)

中心市街地の南部、エルベ川沿いの港湾地区は、エルベ川が幾重にも分かれ、短冊状の中州と堀割状の川に沿って、15ブロック、延長1.5kmにもわたる多くの煉瓦倉庫が並んでいる。ほとんどがネオ・ゴシック様式の赤煉瓦、7階建て。上部には装飾的な破風や塔を備え、圧倒的な存在感がある。1885年~1927年にかけて、急激に増大する国際貿易に対応するため建設された当時世界最大級の倉庫街だったという。堀割を渡る多くの橋は鋼鉄トラス製または煉瓦・石造アーチ製であるが、いずれも煉瓦倉庫群の景観に溶け込んでいる。現在は倉庫としての役割を終え、観光文化施設、博物館、カフエやレストランなどに活用されている。
注目されるのは、このような商業的活用が世界文化遺産に隣接する地域にも広がり、現代的なにぎわいを作り出していることである。「エルプフィルハーモニー・ハンブルク」は、その代表的な例といえよう。
この施設は、世界文化遺産の南西側の一つの中州(バッファゾーン内)で、1966年建設の8階建ての赤煉瓦のカカオ倉庫の外殻を残し、その上に曲面ガラス外壁の上部構造を載せ、コンサートホール、ホテル、住宅、商業施設の複合施設を建設した大規模なプロジェクトである。既存の歴史的環境を生かしながら現代的なインパクト発出を実現したものとして高い評価を受けている。コンサートホールは2,100名収容、全体高さは110m。地上からは港を行く巨大帆船のようにも見える外観だ。
直通の長いエスカレーターで煉瓦構造の頂部に着くと広いラウンジがあり、上部のコンサートホール等の入口となっている。一般市民・観光客は煉瓦構造上部の外周をめぐるバルコニーから、市街地や港湾の水路、倉庫群等の眺望を自由に楽しむことができ、人気の観光スポットになっていた。巨額の投資額となったそうだが、実現したのは斬新なコンセプトと卓越したデザイン力、技術力だと感心した。
10) ベルゲン(ノルウェー)
6月16日はリーセフィヨルドを航行し、20時にベルゲン港に到着した。翌17日は早朝からブリッゲン地区を見学した。
ベルゲンは13世紀にはノルウェーの首都であり、13世紀後半にはハンザ同盟都市となり、14世紀から16世紀の半ばにかけてはハンザ同盟の交易帝国の一部として重要な役割を果たていたという。歴史的に海産物交易で栄えてきた。
世界文化遺産:ブリッゲン地区(Bryggen)

ブリッゲンは埠頭という意味で、その木造倉庫群は魚や穀物を保管するために使われた。港に面し、直接船から荷揚げしていた。ブリッゲン地区は細長い木造建物が港に妻を見せて並び、細い木造通路で区切られる、中世都市の構造を保っている。現在、4.75haの区域の中に62棟の建物が保存されている。
ブリッゲン地区はしばしば火災に襲われ、現在残る建物の多くは1702年の火災後に再建されたものが中心という。1955年には再び大火に見舞われ、ほぼ半分を失ったが、1970年代から長期修復プロジェクが立ち上がった。従前同様の都市構造を守り、伝統的な材料と工法で忠実に修復され続けてきた。このことがオーセンティシティを保っていると評価されて1979年に世界遺産に登録された。
私は2014年と2018年、そして今回と3回、ブリッゲン地区を訪れているが、いつもいくつかの建物は修復工事中で、しかもその工事の様子を観光客にも公開している。現場には、「プロジェクト ブリッゲン」という説明版があり、各国語(日本語も)でその建物の由来や損傷状況、伝統的な材料と工法で修復している旨等を説明してあり、観光客等はタイミングが合えば、その実際の作業をのぞき見ることができる。
ベルゲンの町にはブリッゲン地区以外にも歴史的建造物があちこちに分布している。ベルゲン駅はオスロとベルゲンを結ぶベルゲン線の終着駅で1913年に竣工した。花崗岩などの石造で正面には大きなアーチ、両側には切妻屋根を見せる。全体として荘厳なイメージを持っている。19世紀の銀行・商社・保険会社の社屋が隣接して並ぶ場所もある。煉瓦造・石造の併用で重厚かつ華やかな妻面を通りに並べ、歴史地区の景観を際立たせている。また、赤、白、橙等、鮮やかな色彩の一般住宅が市街地、山麓、海際に美しく並んで、去りがたい思いを募らせた。
11) フロム(ノルウエー)
翌6月17日はベルゲン駅からフロムを片道約3時間かけて往復した。途中ミュールダルからフロム鉄道に乗って北に向かい、ソグネフィヨルドの支流の最奥部にあるフロムに達する。
フロム鉄道はわずか延長20kmであるが標高差が854mと、世界で最も急勾配の鉄道だ。沿線はほとんど渓谷で、無数の高い滝が落ちている。美しい村の景観も見える。途中、ショースの滝では列車が一時停車し、乗客は外へ出て落差225mの大きな滝を味わうことができる。大洪水のような水量が列車に向かって落ちてくる。すると、赤いドレスを着た森の妖精が岩の上に現れ、ノルウエー民謡に合わせて舞い踊る。滝の轟音と水しぶきの中で妖精が舞う姿は、このフロム鉄道観光の圧巻だ。2014年に見たこの心躍るショーを、今回は妻にも見せることができた。
世界自然遺産:西ノルウエーフィヨルド群ーガイランゲルフィヨルドとネーロイフィヨルド(West Norwegian Fjords – Geirangerfjord and Nærøyfjord)

この自然遺産は氷河が刻んだ地球史の証拠と、圧倒的な自然美を兼ね備えた代表的なフィヨルド景観とされ、2つの地域で構成される。フロムがあるネーロイフィヨルド地域は延長約100km、面積約7万haにも及ぶ。最も狭いところでは幅250mしかなく、切り立った断崖と氷河が特徴的である。フロムはそのフィヨルド観光の拠点であり、鉄道駅、ホテルやレストラン等があり、巨大なクルーズ船も出入りする。前回2014年の旅ではフロムから小さな連絡船に乗り、フィヨルド沿いの小さな村で、若い夫婦がガラスを吹いてつくるワイングラスを買ったことがあり、今も大切にしている。
12) ニューヨーク(アメリカ)
ニューヨークには6月29日早朝に到着した。ベラザーノ・ナロウズ橋(1964年開通。約4,200m)をくぐってニューヨーク湾に進入し、ライトアップされている世界文化遺産:自由の女神像(Statue of Liberty)の横を通り、次第に朝焼けで輝き始めたニューヨークの摩天楼群を見た時、乗客のだれもが歓声をあげた。心躍らせながら甲板、デッキに出て、カメラやスマホ、双眼鏡を構えた。トランプのアメリカでも、ニューヨークはニューヨークだ(笑)。

私たちの船は午前6時にハドソン川沿いのクルーズターミナル第90番埠頭に着岸した。隣の埠頭にはNORWEGIAN GATEWAYという、私たちの船の倍の14万5千トンのクルーズ船が停泊していた。

入国手続きを終えて、徒歩でセントラルパークに向かった。25年振りだ。ニューヨークでの滞在時間が限られているため、アメリカ自然史博物館やメトロポリタン美術館さえ垣間見るだけだった。メトロポリタン美術館屋上からはセントラルパークの緑の向こうにマンハッタンの高層ビル群が見える。以前より全体的に高くなっているが、煎餅のようにスリムな建物がめだつ。セントラルパークの南に近接するSteinway Tower(2020年)という名の高層マンションは高さ435m、84階建、高さと幅との比率が24対1という世界一スレンダーな建物だそうだ。エンパイアステートビルやクライスラービル等のかつてのクラシカルな高層建物デザインから大きく離れている。ただ、今回は確認できなかったが、このSteinway Towerは1925年建築のSteinway Hallの外観や象徴性を保存しつつその背後に建築しているという。グランドセントラル駅周辺、ニューヨーク近代美術館等、他にも同様の例がいくつもあり、これが現代ニューヨークのハイブリッド型の開発潮流とする意見もあるようだ。
歩行者空間が拡大して様変わりしたタイムズスクエアを確認しつつ、ブロードウェイのニューアムステルダム劇場に向かった。1903年建設でブロードウェイで最古と言い、歴史的建造物として指定されている。内部の客席、ホワイエ等、アール・ヌーボーの歴史的意匠がしっかり保存されていた。私たちはセントラルの席で「アラジン」を楽しんだ。

6月30日のニューヨークはまずブルックリンを訪ねた。イーストリバー沿いのEAST 34th Streetというフェリー乗り場から南へ、ブルックリン橋のたもとのDUMBO地区に向かった。フェリーは快適で、川沿いの新しいビル開発も楽しく望見することができた。特にブルックリンのThe Refinery at Dominoは近寄ることはできなかったが、遠景だけでもその保存と開発のコンセプトは理解できた。1884年に稼働した当時アメリカ最大の砂糖工場で、2004年に操業停止。その後ランドマーク指定を受け保存対象 となったという。煉瓦の外壁や煙突を保存し、内部にオフィスや住宅等の複合空間をガラスを多用して建設、屋上にはガラスボールトの空間を設けている。2017年よりプロジェクトに着手し、2023年に竣工した。周辺の公園と緑地等とも密接に連携し、公共的空間を拡大しているという。

フェリーが着いたブルックリンのFulton Ferry Landingは1642年には渡船場として成立し1814年には蒸気船が運航開始した。2011年には歴史建造物保存地区に指定されたという。フェリー乗り場の近くに煉瓦造2階建てで望楼付きの白い板壁の建物がある。1926年頃建築の旧消防艇ポンプ小屋で現在はアイスクリーム店となっている。
さらに行くと古い煉瓦倉庫群を保存改修して商業施設に活用している地域があった。1868年~1885年にかけて建設されたコーヒー、砂糖、ゴム等の倉庫群が1970年代に歴史地区に指定され、2000年代以降商業・文化施設にリノベーションされ、観光・商業の中心として賑わっている。多くの倉庫は外観を保存し、内部の耐震補強、断熱強化や設備更新するとともにガラスの挿入、吹抜の設置等によって現代化を図っている。昼食のために訪れた飲食店も内部の元の構造や天井の意匠を巧みに残し、親しみやすい、快適な空間をつくっていた。サンドイッチもおいしかった。
ブルックリン橋を徒歩で渡り、マンハッタンにもどった。9.11テロによって破壞された2棟のかつてのWorld Trade Center跡地は2つのメモリアルプールとなり、ブロンズ製の縁石に約3,000名の犠牲者の名が記されていた。そのプールの地下はメモリアル博物館となっており、崩壊した鉄骨や基礎などの構造物や遺品等が展示され、映像や音声記録が紹介されていた。当時の被害のすさまじさがリアルに伝わってきた。

旧World Trade Centerはミノル・ヤマサキの設計で1973年に竣工したが、2001年9月11日にイスラム過激派のテロ攻撃によって破壞された。私は旧建物を訪れたこともあるし、また、テロのほぼ1年前の2000年10月に妻といっしょに観光ヘリコプターに乗って、上空から眺めたこともある。それだけに2棟の110階建て建物が消滅し多くの犠牲者が出たことに、24年後にその現場に立ってあらためて言いようのない理不尽さを感じた。

The High Lineはマンハッタン西側にあるかつての高架の貨物線跡に造られた全長2.3kmの空中公園である。貨物線は1980年に廃線となり、廃墟化し、撤去論が高まった。1999年に保存と公園化を訴える市民団体が設立され、2006年からニューヨーク市の予算で緑化等の整備が始まったという。2009年に一部完成、2019年には全線完成したという。現在、公園の運営管理は保存と整備を訴えた市民団体が担い、年間数百万人が訪れる観光地になっている。
私はこの線上公園の南端付近から高架に上り、北へと全線を歩いてみた。高架上はかつての線路を一部残しながら様々な草花や樹木が自然な形で整備され、歩きやすい道になっている。沿線にはベンチ、水遊び場、展示ブース、仮設店舗、階段状の展望施設等があり、トイレも隣接のビル内にある。この公園の沿線には次々と高層ビルが建てられているが、いくつかのビルは公園の緑に呼応して自らも緑化している。この公園は廃線跡を保存し、都市公園へと発展させた革新的プロジェクトであり、その整備の過程は市民運動・行政・ディベロッパーが連携した新しい公共空間づくりのモデルであるとの高い評価もうなずけた。
私はこの公園については以前から少し知っており、高輪築堤の問題が起こった時、このような形での保存や活用ができないだろうかと考えたこともあるが、違う方向に進んでいるようで、残念でならない。
この線上公園はマンハッタン島の西部にあり、ハドソン川の埠頭群に近接する。その埠頭の再開発のひとつがLittle Islandという2021年にできた新しい水上公園だ。廃墟化していた第54埠頭を実業家の寄付により再開発し、チューリップ型の柱の上に約1万㎡の起伏のある浮島を設け、丘や芝生広場、円形劇場等を設けたものだ。私が訪れた日はたいへん暑い日だったが、たいへんにぎわっており、The High Lineとともに都市再生の成功例とされている。
13) パナマ市旧市街地(パナマ)
世界文化遺産:パナマ・ビエホ古代遺跡とパナマの歴史地区(Archaeological Site of Panamá Viejo and Historic District of Panamá 1997)⇒2003年に範囲拡大⇒さらに拡大:パナマ地峡植民地横断ルート(The Colonial Transisthmian Route of Panamá 2025)
7月7日昼前にパナマ共和国の大西洋岸の港町、クリストバル港に寄港した。翌7月8日早朝にはパナマ運河通過のために出港するので、7日午後しかパナマ市見学の機会はない。観光ミニバスをチャーターし、約1時間で太平洋側のパナマシティの歴史地区(カスコ・アンティグオ地区)に到着した。

パナマ歴史地区は、上記のように1997年にパナマ・ビエホの古代遺跡とともに世界文化遺産に登録されたが、2003年に拡張、さらに2025年にカリブ海側の要塞群や両海を結ぶ道路遺構とともに、スペイン帝国が築いた太平洋と大西洋を結ぶ植民地時代の横断ルート全体を示す文化的景観:パナマ地峡植民地横断ルートの6つの資産構成要素の一つとして組み入れられた。
パナマ歴史地区は1673年に建設され、スペイン植民地時代の都市計画と建築がよく残っている。その建設当初頃の建築としてサント・ドミンゴ教会やメトロポリタン大聖堂がある。パナマ歴史博物館は19世紀後半~20世紀初頭に市役所として建設された建物で、新古典主義とスペイン植民地時代の影響を融合した外観である。独立広場に面して建つ。旧司法省の白い大規模建築は、歴史地区の南東端のフランス広場内にあり、1900年代初頭、パナマ共和国初期の司法行政を担ったものである。現在は文化省やその研究所として使用されている。

私は2000年と2001年に東京文化財研究所の国際協力事業に関係して、この地を訪ねたことがある。パナマ政府の要請によるパナマ歴史地区の文化財保存修復協力事業について、私が属していた文化庁建造物課も加わることになったのだ。直接的には当地のメルセド教会の石造外観の修復やマンサナ52地区の木造家屋の修復を目標としていた。メルセド教会は1673年、パナマ・ビエホ地区から石材を運んで、建設中であったパナマ歴史地区に建てられたもので、バロック様式の正面に両側に白い塔が建つ外観であった。2000年当時はやや傷んでいたが、その後内外とも修理・補強され、現在は安定した状態になっている。修復対象であった木造家屋は現場付近では見つけられなかった。
なお、パナマ歴史地区の海上には環状道路が2014年に建設された。交通渋滞の緩和のためとして計画されたが、ユネスコや市民団体から強い反対、懸念が表明され、危機遺産リスト入りの可能性も議論されたという。道路を高架式にして海上に浮かせる形に設計を変更し、危機遺産リスト入りは免れているという。
一方、危機遺産リスト入りを回避するためもあって修復事業が加速し、その活用でホテルやレストラン、カフェその他店舗が急増した。今も一部老朽化した建物が並んでいる地域もあるが、2001年頃と比べると全体としてはこぎれいな街に変貌している。そのため、従前からの住民には住みにくくなっている状況もあるようだ。事実、地区内の公園に“NO A LA GENTRIFICACION, STOP GENTRIFICTION”と書いた横断幕が掲げてあるのを見た。
14) バンクーバー(カナダ)
パナマ歴史地区と新市街地を訪れた後クリストバルのクルーズ船にもどり、翌7月8日にパナマ運河を通過して10日にコスタリカのプンタレナス、14日にメキシコのマンサニージヨに寄港して、それぞれの町・地域を観光し、7月21日朝にはカナダのバンクーバーに到着した。バンクーバーでは郊外のキャピラノ渓谷やグラウス山で楽しむとともに、市街地の建築巡りをした。

クルーズ船が停泊しているカナダプレイスは1983~1985年に1986年のバンクーバー国際博覧会にカナダ館として建設され、その後観光・商業施設、国際会議場等の複合施設、クルーズターミナルとして充実していった。白い帆の形をした屋根は夜にはカラフルにライトアップされる。
バンクーバー美術館は1906年に建設された裁判所を保存活用しているものだ。1979年に裁判所機能が他に移ってから、新古典主義様式の外観や構造を維持しながら改修し、展示空間を確保、拡大して1983年に美術館として開館したという。内部は歴史的要素をある程度残しつつも、コンクリートによる大胆な改造・補強もしており、元来の裁判所の再利用というよりは、美術館としての再構築といったほうが良いかもしれない。港に近接してバンクーバー駅(パシフィック・セントラル駅)がある。1919年建築で、堂々たるボザール様式だ。1991年には鉄道遺産に指定され、内部も含めて保護されているが、今も長距離列車等が発着する現役の駅である。
現代建築で注目されるもののひとつは、バンクーバー・セントラル図書館だ。モシェ・サフディ等の設計で、古代ローマのコロッセオを思わせる楕円形の外壁とその外側のガラス屋根のアトリウム空間だ。このアトリウム空間は、東京フォーラムのアトリウムに似ている。閲覧室が非常に広く、多数あり、しかも利用者の多くがノートパソコンを持ち込んで、何か仕事か学習をしているかのように感じた。図書館の本をそれほど閲覧していていないように感じたのは錯覚か。
バンクーバー市内では活発な建築活動をしている。新築のコンドミニアムも多数あるが、それらの多くはユニークな外観をしている。バルコニーを大きく突き出しているのも特徴的だ。ある高層のコンドミニアムは上方が削りとられたようなデザインで、1階ホールにはたくさんの竹が植えてある。あっ、これはもしかしてと思ったら、やはり隈研吾氏がプロデュース、設計したコンドミニアムだった。足元には日本語の注意書きもあった。
バンクーバーはそれほど大きな町ではなく、すぐ郊外には魅力的な自然があり、住みやすいところだなと感じた。夕食は今回の旅行では初めて寿司を楽しんだ。
15) アラスカ(アメリカ)
バンクーバーを経て、アラスカに向かった。7月25日にシトカ、7月28日にスワードの町に寄港した。

シトカはアラスカの南東部にあり、先住民族であるティンギット族の伝統文化とロシア統治時代の歴史が交差する街である。国立歴史公園では先住民族の歴史や文化等の展示や実演、関連のトーテムポールを見学するとともに、隣接する深い森のトレイルを歩き、たくさんの鮭が川で泳いでいるのを見た。街の中心にはは聖ミカエル教会がランドマークとして建っている。1848年に建造されたが、1966年の火災後、忠実に再建されたという。
スワードでは水族館やアラスカ鉄道の最南端の駅等を訪ねた。スワードはアラスカ購入を実現した当時の米国国務長官ウイリアム・スワードにちなんで命名されたと言う。スワードではエグジット氷河も見学した。バス降り場から展望台に向けてトレイルを歩いていくと、「1926」とか「1961」とかの標識があったが、これはこの氷河の先端がその場所にあった年号を示し、氷河が急速に後退していったことを示している。地球温暖化の影響を実感し、驚いた。
この間、26日、27日はアラスカのフィヨルドや氷河の景観を堪能した。船がいくつものフィヨルドの最奥まで航行し、多くの雄大な氷河を真近で見ることができ、その先端の氷の崩落の音も聞いた。
私たちのクルーズ船はその後、アリューシャン列島に沿って南下し、日本列島に至り、8月7日、無事横浜港に帰港した。

3. 旅を終えて
107日間の旅は、乗船する前は寄港地が少なく、海上を航行中にたいくつするのではないかと危惧していたが、実際は毎日非常に忙しかった。寄港地では世界遺産を含む多くの都市・建築をできるだけ貪欲に見たが、船内でも絶え間なく続く各種の講演、イベント、パーフォーマンス等を見聞するために右往左往していたし、自分の自主企画の準備に忙しかった。毎日、新しい知識の習得と発見、そして乗客間で深まるコミュニケーションがあった。
また、刻々変わる海の色、空の色。朝日、夕日のたとえようもない美しさ。変幻自在の雲、月や星の輝き。フィヨルド・無数の滝・流氷・雄大な氷河、激しい風と雨で揺れる船。水平に迫る雷雨。鯨、イルカ、鳥・・・・。その自然の圧倒的な美しさに日々感動することができた。

最後のアラスカから横浜までの航路に水先案内人として乗ってきた立教大学の教員であり、公益社団法人ピースボート災害支援センター(PBV)のメンバーでもある中沢聖史氏の連続講義、「旅の終わりに考える平和のための対話学」、「能登半島から1年半~地震と豪雨の被災地の今」、「消滅危機からまちを救え 国際交流大 作戦」等の講義も、まさに旅のしめくくりにふさわしいものだった。
平和の維持・回復、差別の禁止と撤廃、貧困からの脱却、災害の予防と復興、環境保護等々。どの一つが欠けても私たちの幸せや安心は成り立たない。もちろん世界遺産の保護も十分にはできない。
この旅は人生観を少し変えるほどのインパクトを私に与えた。船内では様々な人と知り合い、今もその交流は続いている。またいつか、世界一周クルーズに乗りたいと考えている。そのためには健康維持が大事と、妻と日々テニスに励んでいる。