日本の「いと高き」遺産:ジャイアント・カンチレバークレーン


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日本の「いと高き」遺産:ジャイアント・カンチレバークレーン

Japan’s Uplifting Heritage: Giant Cantilever Cranes

マイルズ・オグリソープ博士(TICCIH 会長)Dr. Miles Oglethorpe (TICCIH President) / 翻訳:山内 奈美子 Translation: Namiko YAMAUCHI

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長崎にある150トンのジャイアント・カンチレバークレーン。1909年に建設され、今も三菱重工造船所内で稼働している。2015年に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとなった。(M.オグリソープ撮影)

特別寄稿紹介

本稿は、TICCIH(国際産業遺産保存委員会)の会長であるマイルズ・オグリソープ博士による特別寄稿です。ニューカッスル大学の故ブライアン・ニューマン博士による膨大な研究成果を基に、日本において現存し、今なお稼働するジャイアント・カンチレバークレーンの意義を再評価しています。この卓越した産業遺産は、スコットランドの革新的なエンジニアリング技術が日本の産業基盤の形成に果たした重要な役割を鮮やかに物語るだけでなく、その技術的進化と優れた設計力を余すところなく示しています。また、100年以上にわたり日本の技術者たちによる高度な保守管理によって価値を保ち続けたこれらの構造物が、未来へ受け継がれていくことへの期待が寄せられています。オグリソープ博士からご寄稿いただいた英語の原文は以下のPDFよりお読みいただけます。

Japan’s Uplifting Heritage: Giant Cantilever Cranes

背景

1987年、スコットランドで最も有名な構造設計会社であったサー・ウィリアム・アロル・アンド・カンパニー(Sir William Arrol & Company以下、アロル社)が閉鎖され、グラスゴーの工場の多くが取り壊されることになりました。アロル社は非常に卓越した会社であり、1880年代にはエディンバラ近郊のフォース鉄道橋(2015年よりユネスコ世界文化遺産リストに記載)、ダンディー近郊の二代目テイ橋、そしてロンドンのタワーブリッジ(1886~1894年)の建設実績を誇ります(図1参照)。20世紀初頭には活動を拡大し、英国国内および海外で数多くの象徴的な構造物を建設しました。その中でも有名な例として、現在テート・モダン美術館となっているバンクサイド発電所や、再開発プロジェクトで大成功を収めたバタシー発電所が挙げられます。このようにアロル社は1987年に解散するまでの間、世界中で多種多様な土木構造物を手掛けてきました。

図1 サー・ウィリアム・アロル・アンド・カンパニー社用箋 (HES サー・ウィリアム・アロル・アンド・カンパニーコレクション より)

当時、私はスコットランドの文化遺産記録機関であるスコットランド古代・歴史建造物王立委員会(RCAHMS)で働いており、ストラスクライド大学のジョン・R・ヒューム教授からの要請で、アロル社の工場であるダルマーノック鉄工所を緊急訪問することになりました。スクラップ業者や解体業者がアロル社の記録が保管されたキャビネットを持ち去り、荒廃したオフィスビルの床に記録文書や歴史図面が放置されているという状況でした。私は同僚のグラハム・ダグラスと共に、写真や図面がオフィス中に散乱し、無造作に置かれ、果ては足跡までついているという悲しい光景を目の当たりにしました(図2参照)。

図2 RCAHMS産業遺産調査官グラハム・ダグラスが1987年グラスゴーのダルマーノックの工場の床に散乱するアロル社の記録書類や図面を調査する様子(M・オグリソープ撮影)

しかし、損傷はあったものの、私たちがそこで発見したものは驚くべきものであり、私たちの人生を一変させる程のものでした。スコットランドの驚異的で唯一無二の歴史的エンジニアリング企業の記録だったのです。私たちは可能な限りの資料を集め、エディンバラのオフィスに持ち帰りました。その後数年間にわたり、記録を整理し、識別し、目録を作成したうえで、適切な保管場所に収めました。また、これらの記録を基に「サー・ウィリアム・アロル・コレクション」に収蔵した資料の情報を収めた2冊の目録を発行したのです。このコレクションは現在、ヒストリック・エンバイロメント・スコットランドによって管理されています(図3参照)。最初の目録はオンラインでも閲覧可能です。https://i.rcahms.gov.uk/canmore-pdf/WP00003961.pdf

図3 RCAHMSが発行したアロル社の1998年版、と2000年版の二種類の記録目録。ミリアム・マクドナルド氏によるデータ化によるもの。(旧RCAHMS /現ヒストリックエンバイロメントスコットランドより)”

この作業を完了することができたのは、ニューカッスル大学(イングランド)の工学史家であるブライアン・ニューマン博士の多大な支援があったからこそです。ブライアン博士は、もともとエンジニアとしてのキャリアを積んだ後に学術の世界に進んだため、アロル社関する知識が非常に豊富でした。さらに偶然にも、彼はニューカッスル大学で、アロル社の代表的な製品の一つである「ジャイアント・カンチレバークレーン」の発展に関する博士論文を完成させていました。

日本とのつながり

1987年時点に工場から救出したアロル社のアーカイブの中には、多くのクレーンに関する資料が含まれていましたが、その中で特に目を引く写真が1枚ありました。それは、アロル社のパークヘッド工場(グラスゴー)で組み立てられた巨大なジャイアント・カンチレバークレーンのジブ(アーム)の写真でした。このクレーンは1911年に解体され、海外に送られたものでした(図4参照)。ブライアン博士の研究によると、これはアロル社が製造した中でも最大級のクレーンの一つで、250トンのモデルでした。このクレーンは日本帝国海軍の佐世保造船所のために発注され、最終的に1913年に現地で設置されたものだったのです。

図4 1911年ごろ、アロル社のパークヘッド作業所で、日本の九州に送られる為に解体されている途中の佐世保のジャイアント・カンチレバークレーン (SC555106, © HES, Sir William Arrol Collectionより)

こうしてニューマン博士による研究の助けを借り、ジャイアント・カンチレバークレーンの歴史をまとめ、その重要性を理解し、20世紀までにどれだけのクレーンが現存しているかを調査することができました。この過程で、日本は工学的にも鳥類学的にも、クレーン(鶴)の「ホットスポット」であることがわかりました。2024年現在でも、3基が現存しており、そのうち2基(長崎と佐世保)は今なお稼働中です。もう1基は横浜にあり、小型ですが保存されており、現在は稼働していません。長崎のクレーンはアロル社による製造ではありませんが、クレーン製造を担当したグラスゴーのアップルビー社は、クレーンの製造から1年後にアロル社に買収されました。佐世保と同様に、このクレーンも都市のランドマークであり、三菱重工業の造船所内にそびえる威厳ある構造物で、グラバー園の向かいに位置しています。

ブライアン・ニューマン博士の研究

ニューマン博士の支援により、「サー・ウィリアム・アロル・コレクション」プロジェクトは新たな次元へと広がりました。彼は幸運にも、加藤康子氏率いる日本チームが「明治日本の産業革命遺産」の世界遺産登録推進準備を直接支援できる立場にあったのです(図5参照)。彼のアドバイスが必要だったのは、グラスゴーで建造されたジャイアント・カンチレバークレーンが、もう一つのスコットランドの工学技術による小菅修船場跡と共に、推薦資産の構成要素に含まれていたからです(図6参照)。

図5 ブライアン・ニューマン博士長崎のジャイアント・カンチレバークレーンに関して「明治日本の産業革命遺産」推薦登録課程でアドバイス・意見交換を行っている様子。同時期にニューマン博士は佐世保も視察した。(M.オグリソープ撮影)

世界遺産に推薦するいかなるプロジェクトにおいても、候補となる資産が「顕著な普遍的価値」(OUV: Outstanding Universal Value)を有していることを証明することは重要です。ブライアン博士は、造船所クレーンの起源と進化に関する重要な情報を提供することで、この要件を満たすのに貢献しました。彼の最初の課題は、長崎のクレーンが「ハンマーヘッドクレーン」ではなく、「ジャイアント・カンチレバークレーン」であることを説明することでした。この区別は非常に重要です。「ハンマーヘッドクレーン」はドイツ起源であるのに対し、「ジャイアント・カンチレバークレーン」はイギリス、特にスコットランドに起源を持ち、その設計は明確に異なります。これら二つのクレーンは、拡大するリフティング技術の世界市場で直接競争していたのです。

ジャイアント・カンチレバークレーンは、その設置された造船所で象徴的な存在となり、周囲を圧倒する構造物でした。事実上、それらはその企業の重要性を示すステータスシンボルの役割を果たしていました。しかし、より重要なのは、造船所がますます大きく複雑な船舶を建造する中で、これらのクレーンが果たした役割です。船体や内部により大きな設備や資材を持ち上げる必要性が高まる中で、クレーンは不可欠な存在となっていきました。

図6 長崎にある150トンのジャイアント・カンチレバークレーン。1909年に建設され、今も三菱重工造船所内で稼働している。2015年に登録された「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つとなった。(M.オグリソープ撮影)

実際、船舶の組み立てには、砲塔やエンジン、ボイラーといった非常に大きく重く、しかも極めて高価な部品を船体内部に持ち上げる必要がありました。また、操舵装置、タンク、煙突といった壊れやすいプレハブ部品も同様に扱わなければなりません。これらの部品を正確な位置に運び、設置するには非常に高い精度が求められました。そのため、電動式のジャイアント・カンチレバークレーンは、この作業に最適な設備だったのです。

ジャイアント・カンチレバークレーンの略歴

ブライアン・ニューマン博士の研究は、ジャイアント・カンチレバークレーンの起源をグラスゴー・クレーンおよびエレクトリック・ホイスト社にさかのぼらせました。この会社の最初のクレーンは、イギリスのサンダーランドにあるマコール・アンド・ポロック造船所のために建設されたものです(図7および図8参照)。この会社は1906年にグラスゴーのアップルビー社と合併し、その後、長崎の三菱造船所のために150トンのクレーンを建設する契約を獲得しました。この契約は、おそらく「スコットランドの侍」トーマス・ブレイク・グラバーの影響を受けたものです。このクレーンは、1909年にマザーウェル・ブリッジ社によって設置されました。その翌年、アップルビー社はサー・ウィリアム・アロル・アンド・カンパニーと合併し、これによって当時のクレーン生産の中心地がグラスゴーであることが確定しました。

図7・8 最初のジャイアント・カンチレバークレーンは1904年、イングランドのサンダーランドにおけるマッコール&ポロック社の造船所に設置された。60トン級、どちらも設計、製造ともにグラスゴーのエレクトリッククレーン&ホイスト社による。(ブライアン・ニューマン撮影)

しかし、設計の成功と需要の急増を受けて、他の英国の会社にもクレーンの製造が許可されました。その結果、イギリスのカウアンズ・シェルドン社は、呉(1911年)と横須賀(1911年)で200トンのジャイアント・カンチレバークレーンを建設し、1913年には横浜で50トンのクレーンを建設しました(図9、10、11参照)。これらのうち、現在現存しているのは横浜のクレーンのみで、新設のビジターセンターにあります。残念ながら、そこではこのクレーンを「ハンマーヘッド」と誤って記載しています。

図9・10 ・11 イングランド にあったカウアンス シェルドン社によるジャイアントカンチレバークレーン、それぞれ呉(1911)、横須賀(1911)、横浜(1913) (B.ニューマン、M.オグリソープ撮影)

そうこうするうちに、アロル社は、当時の最大のクレーンを建設する名誉ある契約を獲得していきました。その中には、長崎市から九州沿岸に位置する佐世保の日本帝国海軍のドックヤード向けに建設された250トンのクレーンも含まれていました。佐世保のクレーンは1913年に完成し、都市の海岸線を圧倒する存在となりました。驚くべきことに、このクレーンは第二次世界大戦を生き抜き、現在もSSK(佐世保重工業)によって良好に維持されています。このクレーンの写真(上記の図4参照)は、1987年にアロル社の工場で見つけたものです。

ニューマン博士は、世界中で50基から60基のジャイアント・カンチレバークレーンが建設されたと推定しました。そのうち、彼は(2021年に早逝する前に)12基のみが現存していると考えていました。その半数は英国にあり、イングランドに2基、スコットランドに4基があります。イギリス以外では、日本が最も重要な集中地であり、その理由は、現在も稼働している2基が現存しているからです。これは、これらのクレーンが元々のスコットランドの優れた設計なだけでなく、100年以上にわたってその管理を担当してきた日本の技術者たちの高品質なメンテナンス体制と尊敬の証でもあるからです。また、これらは20世紀初頭における日本と英国との特に密接な関係を反映しているとも言えます。

ニューマン博士が収集したデータによると、建設されたジャイアント・カンチレバークレーンの半数以上は、設計の発祥地であるグラスゴー近郊のスコットランドの企業によって製造されたことが示唆されています。したがって、現存するクレーンの最大の集中地が、クライド川沿いのグラスゴー周辺にあることには納得がいきます。これらのクレーンの中で最後のもの、ストブクロスNo.7(フィニアストン・クレーンとしても知られる)は、皮肉にも1932年にカウアンズ・シェルドン社によってクライド港当局のために建設されました(ただし、基礎と部品はアロル社製であった)。このクレーンは、今では都市の誇り高いシンボルとなっています。

1933年から、バースのストザート・アンド・ピット社は、英国の主要なクレーン製造業者となり、1972年にはイギリスのチャタムで7基目のジャイアント・カンチレバークレーンを建設しました。 現在、現存する最古の稼働中のクレーンは長崎のクレーン(1909年製)であり、これは明治日本の産業革命遺産の一部として適切に位置付けられています。次に古いのが佐世保のクレーン(1913年製)、これはサー・ウィリアム・アロル社によって建設されました。3番目に古い稼働中のクレーンは、ニューカッスルのタイム川沿いにあるウォーカー造船所のクレーンです。このクレーンも250トンの容量でサー・ウィリアム・アロル社によって建設されましたが、最近では350トンにアップグレードされ、オフショアの石油・ガス事業にも対応できるようになっています。このアップグレードは、将来的に佐世保のクレーンがどのような役割を果たすかを考える上で重要な参考になるかもしれません。

インドのビザカパットナムにあるヒンドゥスタン造船所のストザート・アンド・ピット社製100トンのクレーン(1950年製)が現在も稼働している可能性もありますが、これは確認できていません。一方、グラスゴー周辺の4基のクレーンはすべて使用されておらず、今でもクライド川沿いの景観の一部となり印象的な存在となっています。だからこそ、九州が特別な場所であることは間違いないようです!

ジャイアント・カンチレバークレーンの注目すべき動力

ジャイアント・カンチレバークレーンの独特の形状と大きさは、それらが設置された造船所や港の景観を圧倒する存在となった原因です。これらのクレーンは、事実上、その造船所が大規模で現代的な船舶を建造する能力を持つ先進的な企業であることを示すメッセージを発信していました。長崎においても、三菱のクレーンが今でも市の海岸線から目を引いていることがその証拠です。このクレーンが映り込んでいる絵葉書が市内で今なお多く流通していることからも確認できます。

図12 ・13 長崎のクレーンの映る絵葉書(左)とグラスゴー、ゴヴァンにある1911年アロル社によるフェアフィールド造船所を描いた絵画

長崎のクレーンは、現存するジャイアント・カンチレバークレーンの中で2番目に古いもので、最古のものはグラスゴー近郊のクライドバンクにあったジョン・ブラウンズ造船所にあります。ここも、歴史的な造船所であると同時に重要なランドマークでした(図14および図15参照)。残念ながら、ジョン・ブラウンズ造船所は閉鎖され、完全に解体され、現在ではそのクレーンのみがかつてクライド川を支配した産業の記念碑として残っています。このクレーンはもはや稼働していませんが、コロナ禍以前には観光名所として観光客がエレベーターで構造物の頂上まで登ることができました。残念ながら、現在はビジターセンターも閉鎖されています。

図14・15 1908年にアロル社によってジョン・ブラウンズ造船所で建設された150トンのジャイアント・カンチレバークレーン。この左側の画像には、クイーン・メアリー号の豪華客船が装備されている様子が映っています。現在、このクレーンのみが歴史的な造船所の唯一の遺物として残っています。(写真提供:HES)

これにより、長崎のクレーン(図15参照)は世界で最も重要なクレーンの一つとなり、そのため、ユネスコ世界遺産の一部として位置付けられているのにも合点が行きます。その生存の秘密の一つは、造船所の稼働中の一部として保持されていることです。これにより、クレーンは安全で維持可能な状態で保守されています。このクレーンは2014年にスコティッシュ・テンと呼ばれるデジタルドキュメンテーションチームによってレーザー測量で正確に記録され、構造物の素晴らしい記録が残されており、それが歴史的解釈と実際的な保守にも役立っています。

図16 長崎の三菱に納められた1909年にグラスゴーのアップルビー社によって作られた150トン容量のジャイアント・カンチレバークレーン。原図をブライアン ニューマン博士が画像編集

佐世保のジャイアント・カンチレバークレーンの重要性

長崎と同様に、SSKのジャイアント・カンチレバークレーンは、佐世保の海岸線に都市と日本の造船遺産の象徴として誇らしげに立っています。1913年10月に完成したこのクレーンは、19番目に稼働を開始したジャイアント・カンチレバークレーンで、アロル社のロイヤル・ネイヴィー・ポーツマスのクレーンと並び、当時世界で最も強力なクレーンでした。

このクレーンは、日本で建設された5番目で最後のジャイアント・カンチレバークレーンでした。完成時の費用は3,7242ポンドで、総重量は1,229トン(カウンターウェイトは含まず)でした。特筆すべきは、その塔内に設置された電動エレベーターで、これはおそらく世界で初めて造船所のクレーンに取り付けられたものです。後に、グラスゴーのフィニアストン(ストブクロス)クレーンにもエレベーターが設置されました。このクレーンは1913年に完成し、容量は250トンでしたが、造船所の作業員たちが荷物に登って協力し、312トンまでテストされました(図17および図18参照)。

ニューマン博士は、佐世保のジャイアント・カンチレバークレーンが国際的な歴史的重要性を持つと考えていました。その理由は、このクレーンの独自性、産業革命を迎えた日本と英国との関係、そしてその非常にオリジナルな状態が保たれていることです。これは、設計と建設の品質、そして佐世保の作業員たちが100年間にわたって素晴らしい状態で維持してきたことへの証です。

これらの思いを胸に、2013年にスコットランドの文化遺産保護機関であるヒストリック・スコットランドは、当時のスコットランド政府文化大臣であるフィオナ・ヒスロップ議員(MSP)に、クレーンの100周年記念の祝辞に署名してもらうよう依頼しました。この祝辞は、ブライアン・ニューマンと私が準備したものでした。ヒスロップ氏は同年初めに長崎造船所とジャイアント・カンチレバークレーンを訪問し、スコットランドと日本の強い結びつきをよく理解していたため、この署名は非常に適切なものでした。私たちはその後、祝辞を額装した写真とともに佐世保のSSK経営陣に直接お渡しすることができました。

図17・18 完成した佐世保のジャイアント・カンチレバークレーンが1913年に荷重試験を受ける様子。250トンが公式の荷重であるところ、従業員の協力で312トンの掲揚が確かめられた。(ニューマン博士提供写真)

図19・20 1987年アロル社の歴史記録の中からみつかった佐世保クレーンの立面図。2013年にスコットランドの文化大臣から100歳記念を祝うために佐世保に贈呈された記念額装。

佐世保の巨大カンチレバークレーンは、世界の造船史の文脈でも、日本国内においても特別な存在であることは間違いありません。このクレーンは驚くべき生き残りであり、佐世保市のウォーターフロントにおける象徴的なランドマークとして、今も人々に強い印象を与え続けています。今後、このクレーンを維持・運用していくためには投資が必要になることは避けられませんが、その堅牢な設計により、それは十分に可能であり、むしろ望ましいと言えるでしょう。

英国イングランド、ニューカッスル・アポン・タインでは、同じアロル社が製造した250トンクレーンが、かつてのウォーカー造船所でアップグレードされ、現在は英国のオフショア石油・ガス産業において新たな役割を果たしています。このような成功事例がある中で、佐世保重工業(SSK)が佐世保クレーンに投資し、そのクレーンに新たな生命を吹き込む方法を見つけることができれば、素晴らしいことだと思います。

図21・22 2015年に佐世保のクレーンが現役でプレハブのタンクを持ち上げる様子。そしてイングランドのニューカッスル・アポン・タインで妹クレーンが英国のオフショアオイルとガス業界のこれからを支えるためにアップグレードして再活躍を始める様子(M.オグリソープ撮影)

おわりに

ニューマン博士の調査によると、現存する巨大カンチレバークレーンは世界でわずか12基と考えられています。そのうち3基が現在も稼働しており(日本に2基、イングランドに1基)、インドのヒンドスタンにはもう1基ある可能性があります。これまでに確認された50基のうち、およそ半数にあたる23基がスコットランドの企業によって建造され、そのうち18基をグラスゴーのサー・ウィリアム・アロル社が手掛けています。その中でも特に重要なのが佐世保クレーンです。

これらのクレーンの建設地としては、英国国内が29基(イングランドに19基、スコットランドに9基、北アイルランドに1基)と過半数を占め、日本に5基、フランスとアメリカにそれぞれ3基、オーストラリアとデンマークに各2基、シンガポール、中国(香港)、フィンランド、インド、ベルギーにそれぞれ1基が確認されています。その他の事例もあるかもしれませんので、情報をお持ちの方がいれば、ぜひ教えていただきたいと思います。

ブライアンと私にとって、このクレーンに関する旅の中で最も印象深いのは日本での経験です。日本では心温まる歓迎を受け、クレーンへのアクセスを許可していただき、その高い敬意と手厚い管理を目の当たりにしました。さらに驚くべきことは、日本がスコットランド製のクレーンの一つを「明治日本の産業革命遺産」としてユネスコの世界遺産に登録し、その価値を国際的に認めさせたことです。

私の大きな希望は、佐世保の巨大カンチレバークレーンが今後も稼働し続け、佐世保市の生活と経済に貢献できる未来が見つかることです。もしそれが実現すれば、ニューマン博士も多いにに喜ぶことでしょう。

図23 ニューマン博士とご自慢の稼働するジャイアント・カンチレバークレーンのスケールモデルと共に。ニューカッスルのご自宅で 2021年のご逝去前に。(B.ニューマン写真提供)

謝辞

本論文は故ブライアン・ニューマン博士による英国、ニューカッスル大学海洋科学技術学による研究をもとに作成されたものである。 (© Brian Newman)

ブライアン・ニューマン博士が編集したジャイアント・カンチレバー・クレーンの年代順リスト案

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