イコモス2024年次総会/学術シンポジウムでのベニス憲章をめぐる議論


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イコモス2024年次総会/学術シンポジウムでのベニス憲章をめぐる議論

Debating the Venice Charter and Insight from the ICOMOS AGA 2024/Scientific Symposium

金井 健 Ken KANAI

写真1 オウロプレト連邦大学会議場1

1. はじめに

日本イコモスでは、イコモス創立の根拠にもなった「ベニス憲章」(1964)が採択60周年を迎える節目を捉え、2022年に第1小委員会のもとに藤井恵介東京大学名誉教授を主査とした「ベニス憲章等の日本語訳検討ワーキンググループ(WG)」を設置し、計16名のWGメンバーを中心に、日本イコモスが作成した現行の日本語訳(1994)の見直しを行うとともにその内容や解釈を再検討する活動を進めている*。

本年11月13 日から15日にかけて、ブラジル初の世界遺産であるオウロプレト歴史地区(1980年登録)を会場に開催されたイコモス2024年次総会/学術シンポジウムでは「ベニス憲章の再検討:批判的な見地と今日的課題への挑戦(Revisiting the Venice Charter: Critical Perspectives and Contemporary Challenges)」がテーマに掲げられ、4本の基調講演と4回のラウンドテーブル、さらに200本を超える投稿論文の口頭発表(ペーパーセッション)が行われ、国際的な遺産保護の現状や将来展望について活発な議論が展開された。

ここでは、特にベニス憲章の意味と意義に焦点が当てられた基調講演とラウンドテーブルでの議論に注目し、WGの一員としての立場から参加者としての所感を記しておくこととしたい。

写真1 イコモス2024年次総会/学術シンポジウム主会場のエントランス(オウロプレト連邦大学アーツ・コンベンションセンター)

写真2 オウロプレト歴史地区内にある旧国立鉱山冶金学校の施設を再利用したオウロプレト連邦大学アーツ・コンベンションセンターの外観

2. 遺産保護の国際的動向におけるベニス憲章の現在地 

基調講演には、オーストラリア社会科学院遺産博物館研究科教授のローラジェーン・スミス(Laurajane Smith)氏、ケニア国立博物館名誉館長のジョージ・アブング氏(George Abungu)氏、インドの建築家・都市計画コンサルタントであるクリシュナ・メノン(Krishna Menon)氏、中国・西安建築科技大学建築科長の刘克成(Liu Kecheng)氏の4名が登壇した。いずれの講演も、シンポジウムのテーマにあわせてベニス憲章を各自の研究的・専門的な現在の立ち位置から客観的にふりかえる点で共通していたが、中でもスミス氏とアブング氏が、より具体的にベニス憲章の時代性と展開の限界を指摘し、21世紀の国際社会に適応した遺産保護規範の再定義を主張したところに、今回シンポジウムの主催者およびラテンアメリカを中心とした参加者総体の問題意識が集約されていたように思われた。

両氏の講演の骨子は、スミス氏が自身の提唱する「権威化された遺産言説(Authorized Heritage Discourse)」の観点から、19世紀以来の欧州における遺産の保存修復理論の集成であるベニス憲章がもつ地域偏重性(ユーロセントリズム = Eurocentrism)と排他性(物体の重視、不変への固執、科学者・専門家の優越)を指摘し、前時代的な国際規範としてその「引退(retire)」を求めたもの、アブング氏が、遺産保護は常に現代社会との密接な関係性の中にあるべきこと、その意味で遺産保護とは政治的であり、特にアフリカを中心とした非欧州世界においては人権運動(ブラックライブズマター= the Black Lives Matter)や脱植民地化運動(ローズマストフォール = the Rhodes Must Fall)に象徴される社会運動の展開に呼応しうる遺産保護規範が求められていることを訴えたものである。

ラウンドテーブルでは、「歴史的文脈と遺産概念(Historical Context and Heritage Concepts)」の回に登壇したイタリア・フェデリコ二世ナポリ大学建築科教授のアンドレア・パーネ(Andrea Pane)氏の発表が印象的であった。同氏は「ベニス憲章」起草の過程や当時の議論を文献資料や関係者へのインタビューから丁寧に分析し、ベニス憲章は考古・建築遺産の保存修復に特化したもので遺産保護全般を対象としたものではないとしつつも、その内容は決して欧州偏重の排他的なものではなく一定の普遍性を有することを指摘し、遺産保護という考え方の起点(歴史的起源)を示す国際規範として今も有効であることを訴えた。しかし、ラウンドテーブル全体の議論の流れとしては基調講演と同様にベニス憲章に替わる新たな国際的な遺産保護規範の必要性が強調される展開となった。

シンポジウムの成果は、ラテンアメリカ諸国のイコモス国内委員会の総意として「オウロプレト文書(Ouro Preto Document)」にまとめられ、その中で新しい遺産保護規範の草案を作成するワーキンググループの早急な設置が強く勧告されるとともに、草案作成の基礎として次の六つの論点が示された。

  1. 批判的な見地と今日的課題への挑戦(Critical Perspective and Contemporary Challenges)
  2. 多様な見地からの取込み(Incorporating Diverse Perspectives)
  3. 遺産と所在地域の不可分性(Indissociability of Heritage and Territoriality)
  4. 自然遺産と文化遺産の統合(Integration of Natural and Cultural Heritage)
  5. 遺産の所有者への権限付与(Empowering Heritage Holders)
  6. 民主的かつ包括的なあり方の推進(Promoting a Democratic and Inclusive Vision)

写真3 ローラジェーン・スミス氏による基調講演

写真4 ジョージ・アブング氏による基調講演

写真5 ラウンドテーブルでのアンドレア・パーネ氏の発表

3. まとめ

ベニス憲章は、日本の文化財保護の理念や方法論と大きく矛盾するものではなく、これまでWGの議論に関わってきた者としては、その国際規範としてのあり方に対してパーネ氏の見解に首肯するところが大きい。また、パーネ氏の見解は欧州における遺産保護の捉え方の本流であろうし、日本の世界遺産条約の批准に際して議論・採択された「奈良文書(Nara Document on Authenticity)」(1994)も日本の文化財保護のあり方をその流れに付け加えたもの、いわばベニス憲章の傍流に位置付けることができるだろう。そうした視点からは「オウロプレト文書」が目指す新たな遺産保護規範の姿はいかにも気宇壮大で、もはや遺産保護という範疇を逸脱しているようにもみえる。しかし一方で、今回の会場となったオウロプレト歴史地区(1933年国家指定)や近傍のマリアナ歴史地区(1938年国家指定)といった早くから遺産として保護されてきた完全な植民都市を目の当たりにすると、宗主国由来の不平等な遺産保護のあり方の象徴としてベニス憲章に矛先を向け、それを刷新しようとする思考や行動もまた必然のように感じられた。

今後、イコモスが実際にベニス憲章に替わる遺産保護規範を起草・採択するかは未知数だが、いずれにしても実現した場合には、その内容はベニス憲章が制定された時代とは大きく異なり、現在の日本における文化財保護の考え方や枠組みを大きく超えたものとなることは間違いなさそうだ。

(東京文化財研究所文化遺産国際協力センター国際情報研究室長)

写真6 オウロプレト歴史地区の町並み

写真7 マリアナ歴史地区の聖フランシスコ・アシス教会

* 下間久美子:ベニス憲章の日本語訳の見直しに係る第1小委員会WGの取り組みについて,日本イコモスインフォメーション誌2024春号