ベニス憲章の日本語訳の見直しに係る第1小委員会WGの取り組みについて
ベニス憲章の日本語訳の見直しに係る第1小委員会WGの取り組みについて
Activity Report of the 1st Sub-committee WG of ICOMOS Japan on the review of Japanese translation of the Venice Charter
第1(憲章)小委員会 1st Sub-committee of ICOMOS Japan
1. はじめに
第1小委員会(以下、「憲章小委員会」という)では、2022年10月に「ベニス憲章等の日本語訳検討ワーキング・グループ」(以下、WG)を設置した。その名の通り、『文化遺産保護憲章 研究・検討・報告書』(日本イコモス、1999年3月)に掲載しているベニス憲章日本語訳(以下、「1999報告書訳」という)の見直しを行うことを目的とする。
メンバーは、藤井恵介を委員会主査、益田兼房をWGリーダー、田原幸夫をWGファシリテーターとし、五十音順に秋枝ゆみ、Alejandro Martínez de Arbulo、海野聡、金井健、佐藤桂、清水重敦、下間久美子(WG幹事)、周嘯林、中村琢巳、野尻孝明、増井正哉、矢野和之、脇園大史の16名である。
2022年10月20日に第1回会合を開催した後、月一回を基本として定例会を行い、適宜サブWGを設けて活動を行っている。2023年6月11日には、第2回EPオーセンティシティ研究会「被災文化遺産を通してオーセンティシティを考える」をEP(若手専門家)委員会と共同開催した。以下、活動の概況と今後の課題について紹介したい。
2. 作業について
2024年はベニス憲章採択から60年の節目となるが、WGは記念行事を意図するよりはむしろ、保護の実践における諸課題が寄り集まって設けられた。設立背景については、益田兼房「『ベニス憲章等の本語訳検討WG』キックオフ」(ICOMOS Japan information no.5/2023)を参照されたい。
近年の文化財の国内状況に合わせたベニス憲章の再解釈にとどまらず、1999報告書訳そのものを見直すことに至った理由は大きく二つある。一つは第9条の英語版及びこれを原書とした1999報告書訳には、ベニス憲章のオリジナルとなる仏語版の一部が反映されていない状況が見られること、一つはmonument=記念建造物、site=遺跡、reconstruction=復元といった、ベニス憲章のキーワードともなる言葉の訳語が、時代と共に広がる文化遺産の考え方と比して限定的なことである。後者は以前から指摘されていたことであるが、近年益々顕著になっている。
検討の初期段階では、英語版と仏語版を照合し、必要最小限の修正を1999報告書訳に施す予定であった。しかし、作業を開始すると、仏語版は理念的である一方、英語版は実務的で、同じ憲章とは思えないほどの表現の違いが随所にあることがわかった。この二つを統合して日本語訳を作成しようとすると、接点を見いだすために相当の解釈を加え、どちらにも対応しないものとなってしまうことから、英語版日本語訳と仏語版日本語訳を別々に作成することとした(以下、それぞれ「2024英語版訳」、「2024仏語版訳」という)。
WGでは、2024英語版訳と2024仏語版訳を比較すること、1999報告書訳と2024英語版訳を比較すること、の二つに作業の意義を見いだしている。
3. 2024仏語版訳(仮)と2024英語版訳(仮)の比較の一例
国際ICOMOSの公用語は仏語と英語である。ベニス憲章は仏語で作成され、英訳された。1999報告書訳は、英語版を翻訳したものであり、出所は詳らかではないが、報告書作成作業以前から専門家の間で引き継がれてきたものに拠っている。今回、日本語訳を介して仏語版と英語版を比較することにより、WGでは様々な気づきを得ている。
資料1は、前文第2段落及び、Conservationの章(第4条~第8条)について、2024仏語版訳(仮)、2024英語版訳(仮)、1999報告書訳を並べたものである。前述のように、仏語版では理念を柔らかく謳っているのに対し、英語版は実務的で責務を謳うかのような記述となっている。前文第2段落はそれが顕著な箇所の一つである。
Conservationの章については、例えば次のようなことが窺える。
- この章では、維持管理(第4条)と利用(第5条)の重要性に触れた後、ボリューム・色彩(第6条)⇒位置(第7条)⇒彫刻・絵画・装飾(第8条)と、大きな部分から小さな部位へと視点を移している。
- 第5条の活用に伴う改修について、仏語版では「建物(群)の基本的な秩序や環境を変質させてはならない」としているのに対し、英語版では「建物のレイアウトや装飾を変更してはならない」としている。
- 仏語版では、環境から建造物細部まで統一的にconservationの語を当てている。一方で、英語版ではconservationを基本としながら、彫刻・絵画、装飾等の保護の厳密さを問うものにはpreservationを当てている状況が窺える。第6条の「mass=マッスの関係」や「色彩の関係」においてもpreservationが当てられている。
このように、仏語版と英語版では、歴史的な建造物の保存における現状変更の考え方が、必ずしも同じではないことがわかる。第5条に関して付記すれば、1999報告書訳は、英語版よりもさらに厳しい言い回しになっているのである。また、Conservationの章を読むと、空間の秩序や環境との関係性を重視する仏語版では、資料2に示すように、英語のsetting=環境に該当する語彙が3つに書き分けられていることもわかる。
どちらか一つの言語に片寄ることなく、哲学的で広い視野を持つ仏語版と、技術的で厳格な英語版の相違点を認識することに、ベニス憲章の意義や役割を理解する鍵があるものと思われる。
4. 1999報告書訳と2024英語版訳の比較
1999報告書訳の見直しにあたり、WGでは、本憲章に含まれる主要用語の訳についても再検討を行っているところである。例えば、1999報告書訳ではmonument=記念建造物としているが、ベニス憲章採択以降、60年の月日が経つ中では、記念物として記憶に留めておきたい来歴にも、世界的、国家的、地域的、民族的、個人的等、様々なレベルの様々な時代のものが複層するようになった。そのため、今日の視点からベニス憲章を捉えるのであれば、「歴史的な建造物」のようにする方が平易である。
siteも、遺産管理者がサイト・マネージャーと呼ばれるように、遺産としての土地全般を建物の敷地から集落・町並み、景勝地、文化的景観等まで含み、「遺跡」という既定の訳語では不足がある。
1999報告書訳でrestoration=修復、reconstruction=復元とされる歴史的な建造物の取り扱いにおいても、従来の重要文化財の修理・復原や史跡整備に留まらず、耐震補強、活用整備、町家等のリノベーション、産業交通土木遺産の性能維持、近現代建築への新たな構造物の付加、復興天守の修理等、多岐に渡る状況が現れている。
昨今、歴史的な建造物が地域の発展に果たす役割が殊更に重視される中では、国内でも保護や保存に代わって「継承」が多用され、「市民遺産」や「地域遺産」のような担い手を冠した領域横断的な呼称が好まれる等、ベニス憲章には見られない言葉の主流化も生じている。
文化財保護の規範とされるベニス憲章の内容を再度読み解くにあたり、日本語訳のわかりやすさの向上を図ると共に、旧訳からどのように変わったのか、なぜ変わったのかを記録することは、日本国内の文化財保護の変遷を書き留める作業として重要であると思料される。
5. 今後の課題
2年間の作業には限りがある中で、WGでは、2024英語版訳と2024仏語版訳の比較表、1999報告書訳と2024英語版訳の比較表の作成を行い、これに基づくベニス憲章の解説や関連の事例紹介を可能な範囲で付す予定である。
また、2024年8月31日(土)13時より「京都アカデミアフォーラム in 丸の内」(東京都千代田区丸の内1-5-1、新丸の内ビルディング10階)において、成果案の報告とディスカッションのためのフォーラムを開催し(詳細後日)、2024年内に報告書を刊行する予定である(大成建設自然・歴史環境基金・2023助成事業)。是非、御参加いただきたい。
憲章小委員会では、WG解散後もこの作業を継続し、ベニス憲章20周年、40周年、60周年等を機会にまとめられた刊行物の調査を進め、他の憲章との補完関係を整理すると共に、日本におけるベニス憲章適用の課題を整理しながら、ベニス憲章の解説の充実を図りたいと考えている。また、日本版ベニス憲章を作成し、日本の文化財保護の考え方を世界に向けて発信することを目指したいとも考えている。
御関心のある方には、是非、御参加をいただきたい。
(文責:下間久美子)
WGでは、日本イコモス国内委員会の全会員を対象として、ベニス憲章についてのアンケート調査を実施しています(6月17日締切)。
御協力をくださいますよう、お願い申し上げます。
【アンケートはこちら】