能登再訪
能登再訪
Revisiting Noto after the 2024 Earthquake
佐藤 桂(広報委員会) Katsura SATO (Editorial Board)
2024(令和6)年1月1日の能登半島地震の発生から、2年と5ヶ月が過ぎた。広報委員会では、従来のinfo誌をウェブマガジン化した第一号(2024年春号)で「文化遺産の復旧と復興」を特集し、被災文化財支援特別委員会によるレポートを中心に、能登半島地震の被災地での文化財の被害状況と復旧・復興への取組みに関する記事を集めた。同年9月の奥能登豪雨による被害状況も併せて、同委員会はその後も継続的な現地調査と情報発信に尽力しており、本誌も2025年夏号で「令和6年能登半島地震からの1年半を振り返る」として、再び能登を特集した。
筆者もこれまでに数度、被災後の能登を訪れ、情報収集に努めてきた。今回、2年ぶりに横内基先生(被災文化財支援特別委員会)らとともに被災地をめぐる機会を得たため、2024年春号の「写真ルポ 能登半島地震の今を訪ねて」の続報として、2026年6月4〜5日の二日間で再訪した能登の現状について報告したい。
中能登町 旧丹後家住宅(登録有形文化財)
最初に訪れたのは、石川県鹿島郡の能登部集落である。中能登町にある旧丹後家住宅は、昭和初期に建造されたアズマダチの主屋と表塀、庭門及び塀、裏手にある2階建ての土蔵が、いずれも国の登録有形文化財(建造物)に登録されている。
前回の訪問時(2024年6月)は発災直後であったため、塀の倒壊や土壁の亀裂など、損傷から間もない被害状況を見たことを覚えている。それからちょうど2年が過ぎた現在も、建物はほぼ変わらない状態であった(写真1)。建物外周には応急的なブルーシートが張られたままで、土蔵外壁の剥落など、このまま放置すればさらに損壊が進みそうな状況も見受けられた。周辺の伝統民家も少しずつ数を減らし、更地が増え、新築住宅や新設のソーラーパネルも確認された(写真2)。


このあたり一帯は古代に起源をもつ麻織物文化を有し、能登上布の産地として知られる。旧街道沿いにはアズマダチの民家や平屋の織物工場が集中し、背後の山並みと調和した美しい景観をなしている。震災をきっかけに伝統的な風景が変わっていくことは、人口減少や高齢化などの現実もあり、やむを得ない側面もある。だが、解体を免れた建物に新たな用途を与え、命を吹き込み、再稼働している様子に出会うこともでき(写真3)、新しい動向を知る機会にもなった。

輪島市黒島地区(重要伝統的建造物群保存地区)
次に能登半島北西部に移動し、輪島市門前地域の海沿いに位置する黒島地区を訪れた。ここは16世紀前半から北前船の船主・船員の居住地であった能登天領の集落で、明治初期に最も繁栄した時代の歴史的風致を伝えるという理由から、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
地震で全壊した旧角海家住宅(重要文化財)では、文化財建造物としての復旧工事の計画が進行していると聞く。しかし見たところ現状は2025年6月時点と変わらず、養生されたまま、状態は少しずつ悪化しているようにも見える(写真4)。通りを挟んだ向かい側の家屋は解体作業中で、室内から次々と廃棄物が運び出され、トラックの荷台に投げ込まれていた。

旧角海家住宅のある交差点から鳥居跡を通過し、参道の石段を登った高台にある若宮八幡宮では、ワールド・モニュメント財団との連携による修復支援プロジェクトが始動していると聞いていた。現地に行くと、看板は出ていたが、鳥居や本殿の状態はあまり変わらず、具体的な進捗を確認することはできなかった(写真5)。

地区内には板張りなどで修繕された家屋や、復旧工事中の家屋も散見された。しかし特に北側の地域では、多くの家屋が撤去され、更地が目についた。損壊した土蔵も2年前と変わらず、そのまま放置され、劣化が進んでいる様子が見受けられた(写真6)。

輪島市大沢・上大沢(重要文化的景観)
ここより北上し、蛇行する山間道を海側に抜けると、海岸に沿って急峻な崖を背に小さな集落がある。西二又川河口部の上大沢、桶滝川河口部の大沢は、いずれも「間垣の里」と呼ばれ、季節風や塩害から村を守る背の高い竹垣が集落全体を覆い、美しい景観を形成している。「大沢・上大沢の間垣集落景観」として重要文化的景観に選定された場所である。
能登半島地震による海岸地形の隆起や、奥能登豪雨による土砂災害、河川の鉄砲水などで被災した家屋は多く、地元の人たちは現在は輪島などの仮設住宅に住み、ときどき家の様子を見に帰るような生活であるという。間垣にはところどころ、新しい竹が差し込まれているが(写真7)、従来、毎年行われてきた竹の差し替えは現状では途絶えているとのことであった。上大沢では護岸工事が進行中であった(写真8)。


輪島市朝市通り
続いて訪れたのは、能登半島地震に伴う大規模火災で49,000㎡が全焼した輪島市の朝市通りである。前回は焼失後の町の姿に衝撃を受けたが、現在は公費解体が終わり、人影もなく、閑散としていた(写真9)。閉館したイナチュウ美術館では解体工事が行われていた(写真10)。


筆者らはその後、海岸沿いを走り、白米の千枚田、塩田村を通過して珠洲市に移動した。隆起した海岸沿いには新しい道路が敷設され、車両での移動は(一部、片側車線通行の箇所がある程度で)全体的に問題はなかった。道中では多数の仮設住宅や賃貸型の「みなし仮設住宅」など、現在の生活の場も目にした。
同日は珠洲市内の民宿に泊まり、翌日も奥能登の被災地や復興拠点などを訪れ、震災後の現状や今後の展望について見聞することができた。地元の活動を先導する数人のキーパーソンに出会えたことで、復興への揺るぎない思いや、地元の魂に触れ、私自身も勇気づけられたと同時に、己を振り返るきっかけともなった。珠洲での出会いに関しては、稿を改めて報告したい。
被災地の復興は遅れている、時間が止まったようだ、といわれる。さらに近年は人手不足、人件費高騰、建築資材高騰に加え、中東情勢の影響から資材調達の見通しも立たず、現況を暗雲と捉える報道も目にする。今、世の中は既存のシステムからの脱却を余儀なくされている。従前の生活をプラスの方向に変化させていくために、人間と自然との関わり方や、時間の概念など、現状の価値観を改めて問い直すことが求められている。被災を体験した能登は今、その可能性の最先端にあるのではないだろうか。今回は短い訪問であったが、次回、次々回と訪問を重ね、さらに能登について考えていきたい。
(武蔵野大学)