シリーズ「会員往来」(第9回)
シリーズ「会員往来」(第9回)
Correspondence
川津 彩可 Ayaka KAWAZU

第一小委員会でベニス憲章等の日本語訳翻訳検討ワーキング・グループ(WG)に参加をさせていただいております川津彩可と申します。専門は建築史の特に古代ギリシア時代の遺跡から、当時のポリス(都市国家)社会に関する研究を行っています。建築史分野の先輩・佐藤桂先生のお声がけでWGに参加をさせていただき、 ベニス憲章の日本語翻訳改訂版 『英仏版の比較検討から読み直すベニス憲章』の刊行·公開のお手伝いをさせていただいてきました。
前回1999年刊行の伝説的な報告書の改訂版ですから、WGに参加をさせていただけることになった当初は、俄には現実感の湧かない心持ちでした。当時の報告書をご執筆された先生方をはじめ、自分にとっては歴史上あるいは伝説上の登場人物のような存在の方々が集結していらっしゃいますので、定例の研究会では毎回その空気に圧倒されながら多くを学ばせていただいております。
私自身は、世界の文化遺産に関わる大変革の一つ1994年の「オーセンティシティに関する奈良ドキュメント」の波及を、ちょうど小学生〜大学生の頃に肌で感じていた世代です。奈良ドキュメントとしてきちんと学習をできたのは大学に入って以降のことでしたが、学生の頃は、日本の発信するオーセンティシティの概念の拡張が海外に認められたとしても、「日本は『木の文化』で特殊な状況にある国だから」というような価値観はずっと続くのではないかとも考えていました。それが現在は、有形物の根幹に時間的変遷の中で脈々と流れる無形の概念も、世界中に当然のこととして浸透し久しい状況にあります。この拡張されたオーセンティシティの考え方で、諸先輩の方々が世界における文化遺産の見え方を大きく変える道筋を切り開いてくださったことに、強い感謝の想いが湧き上がります。また本WGの活動を通して、日本の1992年ユネスコ世界遺産条約締結から現在に至るまでの道程で、実際に先達の方々がご経験された海外諸国との修理技法の理解をめぐる困難や軋轢をも学ぶに至りました。ベニス憲章をはじめ、建造物の保存・修復に関わる国際憲章はもともと組積造の豊富な西欧の建築・都市文化を基盤として策定されてきたことがその背景にあります。そのような多くの出来事を経た先の世界、つまり世界中の多くの人々が、当時、奈良ドキュメントを通して日本が伝えたかった概念を当然のこととして受け止め相互理解を行うことができる、そのような世界に、いま、自分たちが在るということがとても貴重なことで、ここで学ばせていただいていることを私たちの世代もきちんと受け継ぎ、そして、後の世代に引き継いでゆかなければならないと、身の引き締まるような想いがしています。
古代ギリシア文明圏の遺跡において、硬い地面を掘り進めた先に眠っていた数千年前の人々の痕跡と対峙するとき、自分たちが、いま、ここに生きているという強い実感が湧き起こります。今回、英仏語版双方の日本語翻訳によりこれまで以上に本来の豊かな理念が訳出されたベニス憲章が、モニュメントや目立たない作品、あるいは都市・集落までを念頭に置き策定されたように、大昔の古代ギリシア時代にも、誰もが一目で気がつくようなモニュメンタルな建造物がある一方で、一見目立たない、そして2000年以上もの歳月を経た現在となってはその残存状況から当初形態・用途ともに解明の難しい公共建築や住宅のような、頻繁な時間的変遷を伴う生活の痕跡も存在しています。それらの両輪をもって、古代当時の素材や技法が成した建物の形式性や象徴性、そして、そこから流動的で大小無数のポリスどうしの関係性を描き出すことを、これからも大切にしてゆきたいと思います。
川津 彩可(かわづ あやか):2023年より明治大学建築学科助教。早稲田大学建築学専攻修士課程[中川武研究室]修了、鎌倉文学館学芸員、東京大学建築学専攻博士課程[加藤耕一研究室]修了。2015-19年夏季、ギリシア北部アルギロス遺跡考古発掘にてDr. Jacques Y. Perreault[モントリオール大学]に師事。共訳書に『芸術の都 ロンドン大図鑑:英国文化遺産と建築・インテリア・デザイン』西村書店、2017年。