世界遺産の保全、その議論の趨勢と遺産影響評価


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世界遺産の保全、その議論の趨勢と遺産影響評価

Trends in Discussions and Heritage Impact Assessment about World Heritage Conservation

西 和彦 Kazuhiko NISHI

イスタンブール歴史地域(トルコ)-比較的初期に遺産影響評価についての言及が見られる例 © Ministry of Culture and Tourism  whc.unesco.org/en/documents/131679
イスタンブール歴史地域(トルコ)-比較的初期に遺産影響評価についての言及が見られる例 ©Ministry of Culture and Tourism https://whc.unesco.org/en/documents/131679

1.あらためて、世界遺産の保全とは

言うまでもないことだが、世界遺産に固有の保全方策が存在するわけではない。個々の文化遺産のタイプ、置かれた状況などによって、社会の中でのルール、あるいは連綿と続けられてきた議論を踏まえた保全の考え方があり、世界遺産の保全もその延長線上にある。しかしながら、世界遺産には、国内法上の保全・保護の仕組みとは別の側面もあり、それゆえの固有の難しさがある。ここでは、世界遺産における保全方策に関する議論のおおまかな推移を振り返ってみることとしたい [i]。

国内法上の保全の仕組みとの最大の違いは、世界遺産の法的枠組みが条約であって、それぞれの国の中で直接の強制力を持つ訳ではないという点にある。例えば、条約の第6条第1項では「締約国は、第1条及び第2条に規定する文化及び自然の遺産が世界の遺産であること並びにその遺産の保護について協力することが国際社会全体の義務であることを認識する。この場合において、その遺産が領域内に存在する国の主権は、十分に尊重されるものとし、また、国内法令に定める財産権は、害されるものではない。」 [ii] とされている。他方で、第4条には「各締約国は、第1条及び第2条に規定する文化及び自然の遺産で自国の領域内に存在するものを認定し、保護し、保存し、整備活用し及びきたるべき世代へ伝承することを確保することが本来自国に課された義務であることを認識する。このため、締約国は、自国の有するすべての能力を用いて、また、適当な場合には、取得しうる限りの国際的な援助及び協力、特に、財政上、美術上、科学上及び技術上の援助及び協力を得て、最善を尽すものとする。」 [iii] と規定されており、このことが、例えば緩衝地帯の外側に関する保全上の要請、すなわち「推薦時に約束したわけではない部分」に対して言及する際の大元の論拠としてしばしば引き合いに出される。

世界遺産の保全については、その注目度の高さから世界遺産委員会の勧告などが強い意味を持つと受け止められる一方で、上記のような条約としての根本的な性格から、当該国の協力なくしては実効性のある保全策を実現できないという側面も有する。このことは、危機遺産の制度が十全に機能しているとは言えない現状から、関係者の間ではよく知られているところであろう。

2.管理計画と影響評価

世界遺産の保全の基本は、前述のように条約としての仕組み上、各締約国の法制度等に依拠しており、各国の制度・運用は当然のことながら一様ではない。しかし、世界遺産の保全の特徴について議論することは可能である。

世界遺産における保全の特色の一つとして、管理計画の重視が挙げられる。ただし、これは必ずしも世界遺産発足時からとは言い難いようで、ユネスコのWEBサイトに掲載されている最も古い作業指針(1977年6月30日版)を見ると、「管理計画(management plan)」についての言及は、推薦書の第14段落に推薦に際して提出すべき情報の一つとして挙げられているのみである。実際、我が国においても初期の推薦では独立した管理計画として策定してはおらず、そうした資産においては近年必要に応じて新たに策定している状況である。その後、1997年の作業指針改訂で管理計画についての記述がより明確になり、現在では「管理システム」として数条にわたる詳細な記述がある [iv] 。

こうして、世界文化遺産の保全に当たっては、法令等に基づくルールと、より具体的な指針としての管理計画(またはシステム)が重視されてきたが、現在主たるツールとして言及されるのは間違いなく「遺産影響評価(Heritage Impact Assessment – HIA)」であろう。近年、遺産の保全に影響を及ぼす恐れのある開発行為等に関しては、必ずと言っていいほど遺産影響評価の実施を求められるようになっており、これは世界遺産推薦あるいはその後の保全状況審査等において、世界遺産委員会に対して締約国側が約束した保全に関するルールに則っているか否かを問わない。

遺産影響評価の実施が、世界遺産の保全に関する議論の中で求められるようになった大きなきっかけは、2011年にICOMOSが策定した「世界文化遺産の遺産影響評価についてのガイダンス(Guidance on Heritage Impact Assessments for Cultural World Heritage Properties)」である [v] 。実際、世界遺産委員会の保全状況に関する決議を見ると、この頃から影響評価に関する言及が増加していることが分かる [vi] 。一方、我が国においては、2018年度に文化庁からの委託を受けた東京文化財研究所が遺産影響評価の現状等についての調査研究事業を実施し、その成果を受けて文化庁から2019年4月に「世界文化遺産の遺産影響評価にかかる参考指針」が示されている。

3.遺産影響評価の利点と難しさ

遺産影響評価が、なぜここまで急速に一般化したのかについては、詳細な分析を要するが、例えば以下のような点が考えられる。

1)個別性の重視

一般に文化遺産の保全においては、画一的なルールの適用ではなく、その文化遺産の特質、状況等を踏まえた個別具体的な議論が重要となるケースが多い。遺産影響評価は、例えば周辺の開発行為等に関して必要とされる「ルール」を定めるのではなく、個別具体の事業に応じて判断を行うので、この点で文化遺産保護との親和性が高い。

2)各国の法規制・ルールに関する理解・議論を必要としない

他国の世界遺産に適用される法令等による規制が、実際にどのように運用され、どのような判断に結びつくのかを理解することは容易でない。これは、如何に丁寧な説明と対話を通じて内容の理解を図ったとしても、現実的には回避しがたいものである。遺産影響評価は、個別具体の行為から、具体的な資産への影響がどのようなものとなるかを議論することになるため、こうした困難さを回避することができる。

一方で、以下のような難しさも内包する。

3)判断に時間を要する

世界遺産の遺産影響評価は文化遺産の価値、特に世界遺産としての顕著な普遍的価値(OUV)、あるいはその属性(attribute)への影響度合いによって判断することが主眼となるが、これにかかるコスト(特に時間的なコスト)は無視できず、また見通すことが難しい。大規模な開発行為等であれば、こうしたコストはあらかじめ織り込まれるべきという議論も成り立つが、価値への影響を問う以上、事業の規模が小さくとも影響が見込まれる可能性がある。

4)事前に「何ができて何ができないか」を見通すことが困難

同様に、「価値」への影響の有無、あるいは多寡を判断することは容易でない。従って、規制を受ける側からすれば、何ができて何ができないかは実際に評価を行ってみるまで分からない、と言うことになりかねない。世界遺産の価値が、発足当時のような世界中で誰が見ても直ちに共有できるような価値から、世界的な価値を精密なロジックによって証明するようなものになってきている現在であればなおさらである。

そもそも管理計画は、文化遺産保護に求められる個別性を満たしつつ、あらかじめ何をして良いのか、あるいはいけないのか、について事前に共通理解を構築することが大きな利点の一つであるが、HIAは下手をするとこうした可能性を閉じてしまう可能性が残るのである。従って、3)と4)について十分配慮することが必要となる。

4.遺産影響評価をめぐる現在の状況

世界遺産の保全は、各締約国の制度を基礎としつつ、年月を経て保全における管理計画(またはシステム)を重視するようになったが、近年さらに保全上の課題への個別対応を重視する方向に進みつつある。もっとも、管理計画の重要性が忘れられたわけではなく、依然として保全状況に関する議論の中ではしばしば言及されている。筆者は、既に述べたように議論のトレンドとして管理計画から遺産影響評価へという流れがあるのではないかと考えているが、両者が相反するものでないことは言うまでもない。前述のような懸念点を解消するためには、管理計画と遺産影響評価の結びつきを明確にすることが必要である。その上で、実際に遺産影響評価をどのように進めるのかという手順を明確にする必要があり [vii] 、我が国においてもガイドライン等の策定が各自治体において進められている。

短期的には、世界遺産委員会での保全に関する議論においてHIAを重視する流れが変わることはないだろう。そうした状況の中で、遺産影響評価が幅広い理解を得た上で、世界遺産の適切な保全に資するよう模索を続ける必要があると考えている。

(文化庁)

[i] なお、本稿はあくまで個人としての見解であり、筆者が属する組織の見解を代表するものではないことを改めて申し添える。

[ii] https://www.mext.go.jp/unesco/009/003/013.pdf

英文では、「Whilst fully respecting the sovereignty of the States on whose territory the cultural and natural heritage mentioned in Articles 1 and 2 is situated, and without prejudice to property right provided by national legislation, the States Parties to this Convention recognize that such heritage constitutes a world heritage for whose protection it is the duty of the international community as a whole to co-operate.」

[iii] Each State Party to this Convention recognizes that the duty of ensuring the identification, protection, conservation, presentation and transmission to future generations of the cultural and natural heritage referred to in Articles 1 and 2 and situated on its territory, belongs primarily to that State. It will do all it can to this end, to the utmost of its own resources and, where appropriate, with any international assistance and co-operation, in particular, financial, artistic, scientific and technical, which it may be able to obtain.

[iv] 作業指針第108条から118の2条まで。なお、「計画」の重視から、より広範な管理「システム」の重視へという考え方の推移は、その資産が置かれている社会によっては、保全に関する伝統的な意思決定のシステムが存在することがあり、必ずしも(あえて言うなら西欧的な)「計画」に基づくものだけではない、という理解が背景にある。

[v] このガイダンス文書は、2009年9月にパリで行われたワークショップを通じて検討されたとされている。2008年にケベックで開催された第32回世界遺産委員会においては、世界遺産センター及び助言機関に対して、ガイドラインの策定準備を進めるよう要請が決議(32COM 7.2)されているので、こうした要請などを受けてICOMOSが検討に着手したものと考えられる。ただし、この決議は「世界遺産に登録された歴史都市の管理(management of historic urban World Heritage properties)」についてのものとされているので、詳しい経緯については更なる検証が必要である。

[vi] 世界遺産委員会の決議上、HIAという略称が使われるようになるのは、若干の例外を除いて2012年の第36回委員会(サンクトペテルブルグ)以降である。2010年の第34回委員会(ブラジリア)からは遺産影響評価「Heritage Impact Assessment」という用語が使われるようになっているが、それ以前はほとんどが環境影響評価で、文化遺産では特定のケースで「archaeological impact assessment」や「visual impact assessment」といった形で言及されているのみである。

[vii] ここで言う「手順」は、具体的な分析方法を指すというよりは、これを含む全体としての手続きの流れを指す。