EPウェビナー報告 「遺産研究(heritage studies)とは何か?遺産保護に役立つのか?」
EPウェビナー報告 「遺産研究(heritage studies)とは何か?遺産保護に役立つのか?」
EP Webinar Report: "What Are Heritage Studies? Are They Useful for Heritage Conservation?"
山田 大樹 Hiroki YAMADA

日本イコモス国内委員会のEP(若手専門家)常置委員会は、2025年5月14日に、EPウェビナーシリーズ「文化遺産をどう学ぶか?どう教えるか?」の第1回目として「遺産研究」をテーマに開催しました。
ウェビナーシリーズのタイトルと趣旨
タイトルにある「文化遺産をどう学ぶか」は違和感がない表現である一方、「どう教えるか」は、少し傲慢な印象があります。それを避けるために「伝える」とした方がやわらかい表現になりますが、「学ぶ」に対応する言葉は「教える」です。我々は学校教育の中で、小学校から「歴史」について学びますが、「文化遺産」については学ぶ機会が十分にありませんでした。「歴史」を学ぶ機会が必要なように、「文化遺産」を学ぶ機会も必要で、その「教え方」にも研鑽が必要でしょう。ウェビナーのタイトルにはそのような意図があります。
なぜ、文化遺産概念を学び、教える必要性があるのか
報告者自身(山田)は「文化遺産」という講義科目を担当し、約400人の大学生に教える機会を得ています。多くの学生は、「文化遺産=世界文化遺産」という認識をしており、文化遺産が「特別で日常的には自身と関係のないもの」と認識されていることに気づきました。将来を担う学生がこうした認識を持っているままでは、各地域の文化遺産を将来にわたって適切に保護することは困難です。
さらに、「文化遺産は特別なものである」と認識しているのは、大学生だけに限ったことではありませんでした。全国規模のWebアンケート調査(山田他 2024)でも、約4割の東京都区内の回答者が「自宅30分圏内には文化遺産が全くない」と回答しています。これは、地域にある文化遺産の存在が認識されていない現実を示しています。
そこで、「文化遺産とは何か」「文化遺産は我々にとってどのような意義を持つのか」という根本の部分について、言語化しながら学び、特に若年層には教えていく必要があるのではと思い至りました。
ICOMOS会員にとっての課題
日本で「文化遺産」が「世界文化遺産」として限定的に認識されがちである一方、国際的には遺産概念は拡大し続けています。「世界文化遺産」も遺産概念の拡大の影響を強く受けており、世界遺産条約当初と現在では、そこに含まれる遺産概念は大きく異なっています。世界文化遺産の対象も、記念工作物と考古遺跡から始まり、歴史的都市、文化的景観、近代遺産と拡大し続けています。先ほどのアンケート結果からみる文化遺産認識とは逆に、このままでは「なんでも文化遺産になってしまうのではないか」と混乱するほどです。
さらに、近年では、先住民の文化遺産、BLM運動とも関係する植民者による文化遺産や、ジェンダー問題に関わる伝統の扱い方まで議論が膨らんでおり、文化遺産が政治問題化する様相もみせています。こうした中で「そもそも文化遺産とは何か」をICOMOSの若手会員(EP)は学ぶ必要があると感じ、今回のウェビナーでは、日本における遺産研究の第一人者である松田陽先生を講師にお招きし、「遺産研究(heritage studies)」について教わり、学ぶ機会としました。
第1回ウェビナーの概要
遺産研究は、1980年代以降に英語圏で急成長した研究分野であり、国家的なもの(特別なもの・権威的なもの)として捉えられていた文化遺産に対して、批評・批判を重ね、解釈を広げていきました。つまり、いかにして古いモノ・コトが価値ある遺産(heritage)であると人々に認識されるようになり、またそうした遺産が社会の中でどのように使われるのかを探究する研究です。これは、史跡や建造物のような具体的な遺産をいかに保護すべきかを考える、いわば問題解決型の研究ではなく、遺産をつくり、使うことによって、人間はいったい何をしようとしているのかを、人文学的また社会科学的に考察する真理追求型に近い研究領域です。
保存修復の実践者からすると、遺産研究者は理屈ばかりこねて批判や批評に興じており、目の前にある遺産の保護にまったく役立たないと映るかもしれません。実際にそうした側面もあるものの、遺産概念をより広げて多様化させる必要性、遺産保護における地域コミュニティ参加の重要性、遺産マネジメントで先住民やジェンダー問題を考慮する大切さを真っ先に主張してきたのは遺産研究の分野であり、いまやUNESCO、ICCROM、ICOMOSといった諸機関もこうした考え方を全面的に受け容れています。遺産研究のおかげで、遺産保護はより民主的になったとも言え、またより複雑になったとも言えます。
本研究会は、遺産研究の功罪について学ぶ機会として開催されました。
講義を受けて考えたこと(個人的所感)
松田先生は、David Lowenthal(1998)の論を参考に、歴史学と遺産(学)を切り分けて説明されました。歴史学は現在から過去を客観的に捉えるアプローチをとるのに対して、遺産(学)は現在まで残ってきた事物を主観性も含めて捉え、未来に向けてどうするのかを考えていくアプローチをとります。つまり、遺産概念は、現代の人々が残された遺産にどう向き合い、未来に向けてどのように継承していくかという選択と深く関わっています。
遺産研究は、既存の文化遺産概念に対して批評や批判を重ねることにより、遺産の多様な価値を提示し、遺産は単なる物質ではなく、社会性をもち、各人によって遺産の価値の置き所が変わるとしました。
有形遺産の保存・修復や活用の場面においては、社会における文化遺産の価値を特定した上でマネジメントをすることが重要になります。市民と共に遺産の保護を行うことは現在では当たり前ですが、この考え方の形成と一般化には、遺産研究が大きく寄与しました。ICOMOS会員自身も遺産に関わる一構成員であることを理解しつつ、専門家としての自らの価値観を提示し、他者との対話を通じて保護を進めることの重要性を改めて実感しました。
ウェビナーでは、近年の遺産保護は「モノ中心からヒト中心」、「世界遺産を保護するのではなく、世界遺産を使って○○を達成する(例えばSDGs項目)」という方向へシフトしている状況をご紹介いただきました。しかし、遺産の物質的側面は一度失われたら取り戻せませんし、遺産の近くにいるコミュニティの想いさえあれば、遺産を自由に扱ってよいというわけではないはずです。遺産概念が一般に理解されていないのと同じように、保存概念も理解されていません。なぜICOMOSが必要とされたのか、なぜ世界遺産条約が採択されたのか、保存概念形成の経緯を含めて学び、教え、広く共有する必要があります。あくまで個人的見解ですが、そうしないと、有形遺産を保護する意義を見失うように思うのです。
そのためにも、保護対象とする「狭義の文化遺産」、遺産研究によって拡大した「広義の文化遺産」の二つを区別しつつ、それぞれについて概念形成を含めて学び、教えることが重要であると感じました。
今後のウェビナー展開
本ウェビナーシリーズは今後も不定期に開催していく予定です。定期的に実施しているEPサロン内での議論を通して、さらに有意義なウェビナーを企画していきます。
今回の第1回ウェビナーは、以下のリンクより期間限定でご視聴いただけます。
EPウェビナーシリーズ:「文化遺産」をどう学ぶか?どう教えるか?(第1回)
また、EPメンバー限定で、過去のウェビナーもEPの YouTubeチャンネルにて閲覧可能です。この機会にぜひEPへの参加をご検討ください。
(EP主査/帝京大学文化財研究所)
参考文献
山田大樹・関宏光・金井拓人・河野俊行(2024)「地域愛着と地域内文化遺産の関係——地域性と個人属性、コロナ禍による意識変化に着目した一考察」『日本建築学会計画系論文集』, 89(821), 1314–1325. https://doi.org/10.3130/aija.89.1314
ウェビナー内で紹介いただいた遺産研究関連書籍(*ウェビナー内での紹介順に記載)
David Lowenthal (1985) The Past is a Foreign Country. Cambridge University Press.
Patrick Wright (1987) On Living an Old Country. Oxford University Press.
Robert Hewison (1985) The Heritage Industry: Britain in a Climate of Decline. Routledge.
Stuart Hall (1999) “Whose Heritage?: Un-settling ‘The Heritage’, Re-imagining the Post-nation”. Routledge.
Raphael Samuel (1995) Theatres of Memory. Verso.
Kevin Walsh (1992) The Representation of the Past: Museum and Heritage in the Post-modern world. Routledge.
John Urry (1990) The Tourist Gaze: Leisure and Travel in Contemporary Societies. SAGE Publications Ltd.
David Lowenthal (1998) The Heritage Crusade and the Spoils of History. Cambridge University Press.
Laurajane Smith (2006) Uses of Heritage. Routledge.
Fiona Mclean (2006) “Introduction: Heritage and Identity” . International Journal of Heritage Studies, 12(1), 3–7.
John Schofield (ed.)(2014)Who Needs Experts?. Routledge.
Cornelius Holtorf (2017) “Perceiving the Past: From Age Value to Pastness” . International Journal of Cultural Property, 24(4), 497–515.
Rodney Harrison , et al. (2020) Heritage Futures. UCL Press.
荻野昌弘(編)(2002)『文化遺産の社会学』新曜社.
木村至聖・森久聡(編)(2020)『社会学で読み解く文化遺産』新曜社.
Erica Avrami, Randall Mason, and Marta de la Torre (2000) Values and Heritage Conservation : Research Report. Los Angeles, CA: Getty Conservation Institute.
ICCROM (2015) People-Centred Approaches to the Conservation of Cultural Heritage: Living Heritage.
UNESCO (2012) Community development through World Heritage.