イクロムの今
イクロムの今
ICCROM today
江島 祐輔 Yusuke EJIMA

イクロムとは
イクロム(ICCROM)は、文化財保存修復研究国際センター(International Centre for the Study of the Preservation and Restoration of Cultural Property)の略称で、世界中の文化遺産の保存と修復を目的とする政府間組織である。1956年、ニューデリーで開催された第9回ユネスコ総会において、第二次世界大戦後の文化遺産保護の課題に対応するため、政府間組織の設立が提案され、採択された。その後、イタリア政府との合意に基づき、1959年にローマに事務所を構え、活動をスタートした。2012年には、アラブ地域における文化遺産保護を促進するため、加盟国等の支援を受けてアラブ首長国連邦のシャルジャに地域事務所が開設された。また、昨年新たにウズベキスタンが加盟し、これで加盟国は138か国となった。

イクロムの研修プログラム
イクロムは政府間組織であることから、加盟国のニーズに応えることが大きな任務である。その他にも、イコモス(国際記念物遺跡会議)やIUCN(国際自然保護連合)と共にユネスコ世界遺産委員会の諮問機関を務めるなど、世界各地のさまざまな組織や機関と連携している。
イクロムは、研修(Training)、情報(Information)、研究(Research)、協力(Cooperation)、提唱(Advocacy)の5つを活動の柱に掲げている。2018年から2025年の戦略的方針と目標では、防災やアフリカ支援など文化遺産に関する世界的課題への対応、多様なグローバルネットワークの構築、加盟国や財源の拡大などの組織強化を3つの重点目標にしている。
創設初期には、専門家とともに職員を遺跡や壁画の保存修復現場に派遣して支援するプロジェクトなどもあったが、近年は人材育成への需要が高まり、研修が主要な活動となっている。また、気候変動対策は文化遺産分野においても重要なテーマとなっており、関連する研修が多く実施されている。以下に主要なプログラムについて概説する。
- 危機的状況下における文化遺産の応急対応とレジリエンス(FAR)
遺産およびそのコミュニティを保護し、災害や紛争によるリスク軽減を目的とする包括的プログラム。モットーは「文化は待てない(Culture Cannot Wait)」で、災害リスク軽減、人道支援、平和構築、気候変動対策といった広範な分野に遺産保護の視点を加えることで、平和で災害に強いコミュニティを構築できるという理念に基づいている。本プログラムは、かつて「危機的状況下における文化遺産の応急対応」として実施していたが、事後の対応だけでなく、事前の備えも含めた包括的な内容にリニューアルした。理論を実践につなげるため、各プロジェクトに応じた講義内容や専門家をアレンジしている。EUから資金提供を受けた災害や紛争からの保護能力強化プロジェクトや、ウクライナでのプロジェクトも展開している。

- 世界遺産リーダーシップ(WHL)
イクロム、IUCN、ノルウェー気候環境省は、世界遺産センター、イコモスと協力し、世界遺産の持続可能な開発における文化と自然の保全と管理の現状改善を目指している。近年では「世界遺産の文脈における影響評価のためのガイダンスとツールキット」が多言語で翻訳されていて、このテキストを用いたワークショップを頻繁に開催している。2025年3月には、国際コース「世界遺産の管理:人・自然・文化」(PNC25)を開催。オンラインで提供され、文化遺産、自然遺産、複合遺産に関わる38人の専門家が参加した。参加者は、歴史地区、遺跡、文化的景観、天然記念物、近代遺産などさまざまな遺産で活躍するさまざまな立場の専門家で、それぞれの貴重な経験や視点を共有し、意見交換をおこなった。本コースの内容は、世界遺産リソースマニュアルの「世界遺産の管理」と「私たちの遺産強化ツールキット2.0」および「世界遺産条約履行のための作業指針」(2021年版文化庁仮訳、最新版)に沿ったものとなっている。

- ユース・ヘリテージ・アフリカ(YHA)
アフリカで貧困に苦しむ若者と遺産を結びつけ、若者がリーダーとして活躍できる力を育み、遺産を経済的、社会的発展の源にすることを目指すプログラム。アフリカと一口に言っても遺産ごとに状況は大きく異なるため、現在イクロムは複数の機関と協力関係を構築し、イベント、ワークショップや研修などを開催している。また、「ヘリテージ・ハブ」と呼ぶ人材の発掘、交流や育成などを目的とした拠点を設け、文化遺産の持続的発展に貢献することを期待している。
- ラテンアメリカ・カリブ海地域(LAC)における遺産管理
141の世界遺産を含む、ラテンアメリカ・カリブ海地域の遺産を対象とするプログラム。この地域には、古代文化や自然と強く結びついた先住民の知恵などが多く残されている。しかし、気候変動に伴う自然災害、マスツーリズム、都市化、ガバナンスの課題、人材や能力の不足など、社会的、政治的、経済的、環境的な要因による多様な脅威に直面している。そこで、本プログラムでは災害リスク管理に重点を置きつつ、遺産に関わるさまざまな課題を扱う。また、より多くの人々の参加を促すため、使用言語としてスペイン語とポルトガル語を採用している。
- 収蔵品管理の再編(RE-ORG)
2011年にイクロムとユネスコが共同で実施した国際調査により、世界中の保管庫にあるコレクションが深刻な状況に陥っている実態が明らかとなった。イクロムは博物館や美術館が収蔵品を適切に管理するための実践的手法「RE-ORGメソッド」を開発し、研修等を通じてそのノウハウを世界中の関係機関に提供している。
- 東南アジアのコレクション保護(CollAsia)
2003年に加盟国の要請により設立されたプログラム。当初はゲッティ財団の支援を受けていたが、2012年から韓国文化財庁の資金提供を受けて継続している。主に、災害や紛争の影響を受けやすい東南アジアの伝統工芸などの遺産コレクションの保全状況の改善を目的としている。近年では、科学的アプローチの導入に加え、伝統的あるいは地域固有の材料や技法の保存に関心が高まっている。プログラムを通じて、専門的知識だけでなく、専門家同士のネットワーク構築やコミュニティへの実践的な介入の手法も提供している。

- アラブ地域の建築考古有形遺産プロジェクト(ATHAR)
2004年にスタートした本プログラムは、2012年のシャルジャ地域事務所開設により強化された。アラブ地域における建築や考古遺産を対象に、サイトやコレクションの適切な管理、人材を育成を通じて、各地の遺産保存期間の能力向上を支援している。また、これらの取り組みを持続可能な開発目標(SDGs)に沿った事業へと発展させることも目指している。

日本との関係
日本は1967年にイクロムに加盟し、1969年以降継続的に理事が選出されている。理事の任期は4年で、2023年の総会で一部が改選され、日本の理事も再任された。2000年以降、文化庁の職員が継続して出向しており、私で12人目となる。本部にスタッフを出向させているのは日本のみで、小さな組織を人材面でも支援している。
イクロムの2024-2025年度予算は、約45%を加盟国からの拠出金でまかなっている。総額7,675,725ユーロのうち、アメリカが1,688,574ユーロと最も多く、次いで中国(1,203,878ユーロ)、日本(633,984ユーロ)と続く。日本はかつてアメリカに次ぐ第2位だったが、現在は中国に次いで第3位である。近年中国は、国家文化遺産局(NCHA)やユネスコ・アジア太平洋地域世界遺産研修研究所上海センター(WHITR-AP Shanghai)がイクロムと共同で活動をおこなうなど、徐々に存在感を増している。
一方、日本でもイクロムと共同で研修を開催している。ACCU奈良事務所(公益財団法人ユネスコ・アジア文化センター文化遺産保護協力事務所)とは、アジア太平洋地域から約15名を招いて、木造建造物と考古学のテーマについて隔年で研修を実施している。座学と共に社寺や遺跡の現地を訪れて、日本の文化遺産保護について学ぶものである。この研修は2000年にスタートし、2024年までに延べ370名の参加者が受講している。立命館大学歴史都市防災研究所とは、アジア太平洋地域から参加者を募って文化遺産防災国際研修を開催していたが、2024年をもって一旦終了し現在次の展開を検討している。東京文化財研究所とは、和紙の保存に関する国際研修を開催している。和紙は、ヨーロッパを中心に絵画の保存修復に使用されることもあるなど、その材料や製紙技術への関心が世界的に高く、世界各地から参加者が集まってくる。また、ACCU奈良事務所では毎年、文化遺産の時流を捉えたテーマについての国際会議を開催しており、イクロムは専門家の派遣などで協力している。昨年は、1994年の世界文化遺産奈良会議での「オーセンティシティに関する奈良文書」採択から30年を記念して、「世界文化遺産とオーセンティシティ」というテーマで開催された。

おわりに
日本は1967年の加盟以来、イクロムと良好な関係を築いてきた。特に2000年前後からは、その関係はより発展、強化した。イタリアから日本の文化財保存を見ると、そのレベルが多くの面でトップクラスであることを改めて実感する。しかし、それは国際的にはあまり認識されていない。認識されていないというより、少なからず認識している人はいるが、意識されていないという方が正確かもしれない。かつては国内の議論だけで十分だったが、インバウンドの増加などにより、文化遺産に対する国際的な視点を踏まえることは、望まなくても避けられない時代になってきた。これまで着実に培ってきたイクロムと日本の関係は、今後さらに重要性を増すだろう。
最後に率直な思いを述べると、語学力の問題が依然として大きな問題であることを痛感している。文化遺産関連の国際研修などのイベントを見渡しても、東南アジアや中国、韓国の参加者は時折見かけるが、日本人の姿はほとんど見かけない。文化遺産の分野でも、国際スタンダードを理解することは今後より一層重要になってくる。次世代には、語学が障害とならないことを強く期待している。
(イクロム)