令和6年能登半島豪雨による文化財の被害


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令和6年能登半島豪雨による文化財の被害

Damage to cultural properties caused by the 2024 Noto Peninsula torrential rains

横内 基 Hajime YOKOUCHI

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地震で倒壊した上時国家住宅及び庭園のまわりに堆積する土砂

令和6年能登半島豪雨による文化財の被害

記録的な豪雨が元日の能登半島地震で甚大な被害を受けた奥能登地方を襲った。被災地では、1年間で異なる自然災害により2つの激甚災害に指定される異例の状況が起きている。

今回の豪雨は、9月21日から23日にかけて台風14号から変わった温帯低気圧や活発な秋雨前線、線状降水帯などの影響によるもので、気象庁は21日午前10時50分に輪島市・珠洲市・能登町に大雨特別警報を発表した。奥能登地域を中心に河川の氾濫、土砂災害が多発し15人が死亡した。元日に発生した能登半島地震の復旧工事現場においても土砂崩れや仮設資材の流出・破損などが生じ、道路の震災復旧工事に従事していた作業員1人が死亡するなどした。また、地震によって建てられた仮設住宅が床上浸水する被害も発生した。

被災文化財支援特別委員会では、豪雨災害による文化財の被害の状況を確認するため、11月に被害調査を実施した。今回の被害調査では、輪島市町野町周辺や門前町周辺の被害状況の把握と被災文化財の所有者にお話をうかがった。

輪島市町野町周辺の状況

輪島市町野町の中心部は、地震によって多くの木造家屋が倒壊したほか、鉄筋コンクリート造建物が層崩壊するなど、震災による建物被害が甚大なエリアの一つである。今回の豪雨でも随所で斜面崩壊や土石流が起こり、人的被害や家屋流出等の被害が出た。

上時国家住宅(輪島市町野町南時国)は、町野川河口付近の右岸に位置する。大納言平時忠の末孫と伝え、初代は時忠の長男時国であり、中世以来奥能登地方に強力な勢力を誇った旧家である。奥能登にあった幕府領の大庄屋をつとめ、地域支配の中核を担った。現当主の健太郎氏まで25代の系譜が明らかになっている。現在の主屋は 文政8年(1825)頃より着工し、嘉永6年(1853)頃に完成したと考えられている。奥能登における村落支配の拠点となった特権的な家の住居で、主屋は大型の民家が多い北陸地方にあっても最大級の規模を有する。室内の造作や座敷飾り、土間廻りの豪壮な梁組など、江戸末期の民家の一つの到達点を示す遺構として重要とされる。庭園は、住宅の書院から観賞できるように、西、南、東の3方向に面して造られている。住宅の立地と園池及び築山の配置関係などは江戸時代に定式化した住宅庭園の様式を踏まえつつ、独特な意匠や幽遂な雰囲気を醸し出しており、観賞上の価値は極めて高い。また、江戸時代におけるこの地方の豪農の文化的な水準の高さを示す事例としても学術的価値は極めて高いとされる。これらから主屋・米蔵・納屋が重要文化財に、庭園が名勝に指定されている。

震災前の上時国家住宅主屋(提供:西岡聡氏)

今回、所有者の許可を得て敷地内部に立ち入り、被害の状況を確認した。上時国家は、元日の地震で主屋が倒壊したことは報道等でご存知の方も多いと思うが、その10日ほど前の2023年12月22日に記録的大雪によって庭園の樹齢100年超と言われる大木が複数倒れ、一部の倒木が重要文化財の主屋に接触して主屋の一部を損壊した。そして、今回の豪雨によって裏山から流れ込んだ土砂が敷地全体を覆う。

大雪によって倒れた樹木(筆者撮影)

土砂被害の状況(提供:時国健太郎氏)

裏山からの土砂による周辺の被害の様子(提供:時国健太郎氏)

地震で倒壊した主屋のまわりに堆積する土砂(筆者撮影)

倒壊した主屋だけでなく、耐震補強を行っていたことで軽微な修理で復旧できたはずの納屋(重要文化財)やその周囲には土砂が流入・堆積し、庭園の池は境界がわからないほど土砂で埋め尽くされてしまった。

土砂で埋め尽くされた庭園と池(筆者撮影)

土砂が堆積する納屋内部(筆者撮影)

主屋にあった県指定の約8500点の史料は文化財レスキューにより救出されたものの、およそ2万点あると言う未調査の史料はまだ主屋や蔵の中で、今回の水害により汚損していることが心配される。また、倒壊した主屋は豪壮な屋根が地面に接地した状態で、風雨に晒されたままとなっている。一刻も早いこれらの救出や応急養生を必要としている。

上時国家から300mほど離れた場所に建つ時国家住宅(輪島市町野町西時国)は、宝暦6年(1756)頃建築の民家で重要文化財に指定され、敷地も名勝に指定されている。平成17年(2005)に解体修理と耐震補強を行っていたこともあり、地震被害は上時国家に比べて軽微であった。しかし、今回の調査で内部を確認できていないものの、裏山からの大量の土砂の流入があり、主屋の座敷の上にまで大量の土砂が堆積していると聞く。

上時国家・時国家周辺の斜面崩壊の状況(筆者撮影)

南惣家住宅(輪島市町野町東大野)は、重要文化財の両時国家とは町野川を挟んだ対岸に位置する。江戸時代には天領庄屋として栄えた南家の住宅である。建物は明治時代に見られる大規模民家の様式で、主屋・前蔵・馬屋が国の登録有形文化財に登録されている。昭和46年(1971)に米蔵を改装して「能登集古館 南惣」を開館し、平成12年(2000)に「南惣美術館」に改称して展示公開してきた。主屋は大きな茅葺屋根(現在は鉄板葺)を持つ民家であるが、元日の地震で壁の少ない座敷部を中心に大きく傾斜し、柱も多くが小壁位置で折損した。今回の豪雨により裏山の斜面が崩壊していることが確認でき、建物内部を確認することはできなかったが、その土砂が建物内部に流入し、土圧による建物傾斜の進行などをもたらしていると考えられる。

南惣家住宅正面の被害状況(筆者撮影)

南惣家住宅と裏山の斜面崩壊(筆者撮影)

岩倉寺(輪島市町野町西時国)は、北陸三十三カ所観音霊場第16番の真言宗の寺院である。飛鳥時代に孝徳天皇の祈願所として開かれた古刹で、1300年前に発見されたと伝わる千手観音像を本尊としてまつり、大漁祈願の寺としてあがめられている。住職の一二三秀仁氏によれば、本堂は1502年の大火で焼失した後、1507年に再建されたもので、1700年代にも手が加えられたようだが、今も随所で1507年再建当時の部材が残ると言われているとのことである。確かに柱の太さや風食の具合などから、軸部は中世に遡る可能性が考えられる。平面は正面五間、側面八間(背後が倒壊していて正確な柱間は不明)と奥行が長い。

震災前の岩倉寺本堂正面の様子(提供:一二三亮昌氏)

震災前の岩倉寺本堂側面の様子(提供:一二三亮昌氏)

震災前の岩倉寺本堂内部の様子(提供:一二三亮昌氏)

地震による本堂の被害は甚大で、建物の奥の方は倒壊し、手前側は大きく傾斜し、太い柱や貫などの抵抗力でなんとか倒壊を免れている状況だった。

震災後の岩倉寺本堂正面の様子(提供:一二三亮昌氏)

震災後の岩倉寺本堂側面の様子(提供:一二三亮昌氏)

本堂は地震後から徐々に傾斜の進行や崩落が進行していたが、今回の豪雨ではそれがさらに進行したほか、庫裏と住職の住居が土砂で押し流され倒壊した。

豪雨災害後の岩倉寺本堂正面の様子(筆者撮影)

豪雨災害後の岩倉寺本堂側面の様子(筆者撮影)

土砂に押されて移動し倒壊した庫裏(筆者撮影)

土砂に押されて移動し倒壊した住職宅(筆者撮影)

動産文化財については、地震後に文化財レスキューによる救出活動が行われ、それとは別に古文書等史資料は金沢市内の寺で保管されているとのことだが、文化財ドクターによる建造物の調査等は未だ行われていないようである。未指定の文化財だが、軸部はかなり古いとみられ、能登でも有数の古さの寺院本堂である可能性がある。これまで建築的な調査がなされていないようで、このまま情報が失われるのは惜しい。

住職の御子息である一二三亮昌氏は、本堂を同じように復旧することの難しさを感じつつも、使える部材の活用や記録の蓄積をして、少しでも後世に継承していきたいと言う。住職の一二三秀仁氏も復興基金等を活用して復旧の方針を模索しているが、未指定文化財への補助は社寺が対象外であり、地域コミュニティ施設の補助も当寺院は地域コミュニティで管理する施設では無いため補助を受けることが難しく、多重災害により住居も失った状況下で支援を必要としている。

門前町周辺の状況

大沢・上大沢の間垣集落景観として重要文化的景観に選定されている上大沢と大沢の両集落は、市街から集落にアクセスする県道38号線が上大沢集落手前で土砂崩れによって道路が塞がれ通行止めとなり、復旧工事が懸命に進められていた。周辺の集落の方に尋ねても大沢・上大沢集落へ行くルートは他に無いようで、車両による往来が完全に遮断された状態である。どちらの集落も河口付近に集落が形成されているため、豪雨による被害が心配される。

上大沢集落に繋がる県道38号線の通行止め(筆者撮影)

上大沢集落の山の反対側にある門前町皆月集落は、黒島地区と似た漁村集落が形成されている。屋敷の海岸側に丸竹の垣根を形成し、間垣集落とは違った特徴的な景観を見ることができる。河川をつたって濁流とともに流木や土砂が集落を襲い、3日程度孤立状態が続いた。この皆月には古くから残る「アマメハギ」という伝統行事があり、国の重要無形文化財に指定されているほか、男鹿のナマハゲなどとともに能登のアマメハギが、正月など年の節目となる日に仮面・仮装の異形の姿をした者が「来訪神」として家々を訪れ、新たな年を迎えるに当たって怠け者を戒めたり、人々に幸や福をもたらしたりする行事としてユネスコ無形文化遺産に登録されている。建造物だけでなく、こうした地域に継承された伝統行事が、災害によってその場所、担い手、用具等が失われていくことが無いよう、必要な支援を行っていかなければならない。

皆月集落の文化的な景観(筆者撮影)

皆月集落へ続く河川に沿う道路の被害状況(筆者撮影)

黒島伝統的建造物群保存地区の歴史的建造物に豪雨による目立った被害は確認されなかったものの、雨漏りや床下浸水などの被害が出ていると聞く。町並みを歩くと、震災から10ヶ月以上が経過した今も復旧工事は思うように進んでいない印象を受ける。震災後の応急養生で使用しているブルーシートが風雨で摩耗や劣化している様子や地震によって傾斜した建物の傾きが以前よりも進行した様子、土蔵の壁の剥落が進行する様子も見受けられる。これから寒気に入り、積雪によって被害が加速することが懸念される。

旧角海家住宅の現況(筆者撮影)

その他、報道やインターネット等による情報を見ると、名勝の曽々木海岸では大規模な土砂崩れが発生し、白米の千枚田も斜面崩落により田の埋没や畦の崩落が起こっているようである。

曽々木海岸の斜面崩壊(提供:時国健太郎氏)

上時国家当主・時国健太郎氏の復旧に向けた思い

この1年の間に3度の災害に見舞われた上時国家の当主・時国健太郎氏に話を伺う機会をいただいた。そこでは文化財所有者の苦悩や復旧に向けた率直な思いを聞くことができた。

時国健太郎氏へのインタビューの様子

先に述べたように、上時国家住宅は元日の地震で主屋が倒壊し、その他の建造物も被害を受けた。昨年12月の大雪による倒木被害もあり、解体修理による建造物の復旧費用は40億円超と見積られている。国からの復旧補助費や県の復興基金を活用しても、所有者の負担は1億円以上になる見込みである。史料のクリーニング、館内設備や防災設備、浄化槽の整備などはこの金額に含まれず、復旧後の公開活用に向けて必要な費用はさらに膨らむ。追い打ちをかけるように、9月の豪雨で屋敷に土砂が流れ込み、土砂の除去作業などで復旧費はさらに膨れ上がるとみられている。全てを復旧することは諦め、一部は解体することも検討せざるを得ない事態となった。

健太郎氏ご自身も中学1年生までここで暮らし、今も正月などに親族でここに集まっているそうだ。平時忠からの系譜も明らかであり、先祖が守り続けてきた遺産を後世にも伝えたい。また、「建物等+古文書+継承者」がリンクしてこそ文化財価値が最大に維持される。市などに寄贈することで、それらがバラバラになり、学術的進歩が止まってしまうことを恐れている。それなので寄贈や売却は全く考えてなく、どうにか復旧させたい気持ちがある。しかし、個人の所有者が文化財を維持するための負担は大きい。そこに災害が起こると、さらにそれが多重で起こっては、個人で対処できる限度を超えてしまっている。本来ならば部材保存の応急処置なども早く行わなければならないのはわかっている。しかし、復旧完了までおよそ13年が見込まれており、自身も歳を重ね、その間の社会情勢や物価の変動も予測できないなかで、復旧に向けた一歩を踏み出す決断ができないと複雑な胸中を吐露する。復旧を終えた時に周辺道路等のインフラは復旧しているのか?人が戻ってくるのか?など。その他にも文化財として適切に保存するにも地元で材料や職人を確保することができず、前回の屋根葺替工事の時も京都や大分から屋根葺材や葺師がやってきた。

時国氏は、地方で個人が文化財を維持していくのはとても困難な状況に陥っていると訴え、その会話からは金銭的な問題だけでなく、ご当主として先祖から受け継いだ遺産を後世まで時国家で維持し続けることを真摯に考えているからこそ憂慮されている様子が伝わった。

能登半島地震で被災した文化財建造物への支援の枠組み

文化財建造物に関する石川県による震災復旧費用の支援策としては、6月に令和6年能登半島地震復興基金の創設が発表され、9月にその具体的な配分が発表された。復興基金における文化財の復旧支援については、個人等の民間所有の被災文化財の修理にあたり、国や県、市町の既存の補助制度に加えて、それらによる補助残額の所有者負担の2/3を支援することが示された。さらに、文化財への指定登録はないものの市町が一定の歴史的価値を認める建造物・動産についても、所有者負担の1/2を支援することが示された。ただし、未指定文化財については社寺は対象外である。社寺の復旧に活用が期待できる支援として、地域コミュニティ施設等の再建支援も示された。今回の地震により能登地域を中心に集会所や神社などの地域に根付いたコミュニティ施設が多く被災した。その復旧にあたり地域の負担が加重となることや、特に能登においては人の繋がりと祭りを通じた団結が地域コミュニティの維持、そして復興に必要不可欠である。そうしたことが勘案され、2016年熊本地震から支援を大幅に拡充し、再建にかかる費用の3/4、最大1200万円まで補助し、地域住民の負担軽減を図ることが示された。このコミュニティ施設等の再建支援について、例えば輪島市では県復興基金による支援に上乗せして、補助の上限額を2000万円、補助率を4/5に引き上げるなど、市独自に市民の負担軽減策が組まれている。しかし、政教分離の原則や対象が地域が管理する施設であることなどがあり、寺院の復旧には活用が難しく、未指定文化財の寺院に対する支援の枠組みが課題といえる。

市町への支援も必要

輪島市が令和4年7月に策定した輪島市文化財保存活用地域計画の資料編では、未指定も含めると1726件の文化財がリストアップされており、このうち建造物は510件にのぼる。その内訳は、国指定・選定3件、県指定3件、市指定13件、国登録23件(總持寺祖院16棟は重要文化財に指定される予定)、未指定468件である。輪島市が抱える文化財建造物の数は地方の中でも極めて多く、市の文化財職員のマンパワーにも限界がある。市では通常の行政サービスと地震・豪雨の災害復旧対応で人手が足らないなかで、文化財の災害復旧が等閑にされ手遅れにならぬよう、国や県による市への更なる支援の必要性を強く感じる。

おわりに

今回の調査では、復旧に向けて気持ちを維持してきた所有者の、緊張の糸が切れる限界が近付いていることを現地で強く感じた。これから本格的な降雪時期を迎え、積雪によって被害が進行し、所有者が意気阻喪することが無いよう、行政や文化財に関わる専門家などは所有者に寄り添い、出来る支援を早急に考え実行していくことが求められている。国指定文化財などで、特に多重災害に見舞われた際の支援の上乗せや所有者の所得に応じた支援の拡充、未指定文化財については寺院も含めて所有者が維持できる支援の枠組みが求められよう。未指定文化財所有者への復旧に向けた助言なども必要である。

文化財を後世へ伝えるための永続的な保存に際して、日本各地で起こり得る事態が、今、能登で起こっている。他人事ではなく、能登半島の災害復旧に多くの人々が力と知恵を出し、我が国の文化財を後世に継承していくために必要なことを皆で考え、実行する時である。

(国士舘大学 理工学部理工学科建築学系 教授)