文化財庭園の保存修理の現場から(「日本イコモス賞 2023」受賞)
文化財庭園の保存修理の現場から(「日本イコモス賞 2023」受賞)
Preservation and Repair of Cultural-Property Gardens (ICOMOS Japan Awards 2023)
吉村 龍二 Ryuji YOSHIMURA
1.はじめに
これまで各地で行われてきた文化財庭園の修復・復元の蓄積によって、一定の共通理解が先人の努力により形成された。しかし、実際には二つとして同じ庭園は存在せず、一定の共通性はあるものの同じ素材や技法で作られているものはない。さらにそれぞれ過去の保存修復が積み重ねられていることから、その様相は複雑さを増し、単純に過去の修復手法が適合するという事はないと言えるだろう。状況を見極め、的確に修復・復元を行うためには、数多くの事例に触れ、そこで行われている修復の意味と意義を理解することが重要であり、いわゆる目利きになることが肝要である。
本稿は、「日本イコモス賞 2023」受賞に際して行った講演内容の骨子であり、同内容は『都市公園第229号』(東京都公園協会2020年)に掲載したものを再編したものである。近年の文化財庭園の修復・復元において特徴的な事例を基に、発掘調査の結果をどのように解釈し、方針を立て、修復・復元に繋げているのかを報告するものである。
2.修復と修理のはざま
醍醐寺は京都市南東の山科盆地の東側に位置し、笠取山山頂一帯を占める上醍醐と山裾の下醍醐から成り、貞観16年(874)理源大師聖宝によって開かれた。応仁の乱などの戦乱や火災によって、伽藍の荒廃と復興が繰り返されるものの平安期の五重塔や薬師堂などの国宝や重要文化財の他、庭園や仏像、文書など多数の文化財が残る京都においても有数の寺院である。その中にある三宝院は、慶長3年(1598)3月15日に豊臣秀吉による「醍醐の花見」が盛大に行われた事で知られ、その後、第八十代座主の義演が庭者の賢庭と与四郎により二十余年の歳月をかけて完成させたことが『義演准后日記』に仔細に記録されている。
昭和27年(1952)に特別史跡及び特別名勝に指定された醍醐寺三宝院庭園の修復は、近年でも昭和30年(1955)と昭和57年(1982)に行われた。今回の修復は平成9年(1997)頃から護岸石が次々と池の中に転落し、更なる転落や崩壊の危険性があったことから、平成12年(2000)より事業が始まった。事業は池の浚渫から開始し、現状を記録するための実測図を作成するとともに損傷状況の調査を実施した。さらに過去の修復内容の検証を行い、平成14~20年にかけて修復を行うため、現状の護岸構造と崩壊状況を確認する発掘調査を順次実施した。調査区は、発掘が破壊行為でもあることを踏まえ、最少範囲になるよう崩落している部分を対象に断ち割り状にトレンチを設定し、隣接する健全部位の護岸断面を記録した。当初の護岸構造は、水深を深くするため護岸石下部の表面に石積みを配し、水流などによる流亡を抑止し、石積み背後に版築され嵩上げされたテラス上に護岸石が据え付けられ、護岸石背面土も緻密に締め固められたものであることが判明した(写真1)。
しかしながら調査時点の護岸構造は、その後の改修によって手が加えられ、場所によって様々な状況を呈していた。発掘調査で検出された遺物と護岸構造から発掘調査により造営当初と考えられる醍醐寺周辺の赤土を用いた土層上に成立している護岸は、状態が良く、それ以外の土を用いた土層上に成立している護岸は、複数の修理履歴があるものと認められた。造営当初の土層は含有するチャートの扁平な石片が平滑に並び、層状に積み重ねながら版築状に形成されたことが判明し、このテラスを構成する土層が極めて堅牢であることによって、その上部の護岸石が安定していることが明らかとなった。他方、崩落している護岸は、テラスの土層が浸食を受け、護岸石の接地面が不安定になることによって損傷が発生していることが判明した。400年近く経過した造営当初と考えられる構造が今でも良好な状態で残存しているという驚くべき結果であった。
修復においては、発掘調査によって明らかになった当初と考えられる護岸構造を再現することを基本に進める事になった。しかし、実際の施工では、護岸石が転落している個所以外は、安定的なテラスを構築するために必要な上部からタコによって版築状に締め固める仕事ができず、当初工法を再現する方針を見直すことにした。護岸の過半は安定的なテラスの一部が浸食を受けてはいるものの護岸石の移動は微小もしくは判然としないものであった。護岸石を取り上げて安定的なテラスを作成する目的だけで護岸石を取り上げる解体修理に至ることは、護岸石を据え付けた際の当時の職人が行った当初の仕事が失われるという観点から実施せず、現状の護岸石を担保しつつ、限定された施工条件の中、護岸石を動かさず下部のみの修理を実施した。
このように造営当初の構造を目指しつつ、遺構の状況により、保存すべきものを検証し、それを担保するにはどのように修復・修理すればよいか関係者で検討し、臨機応変に施工内容を変更し、それらの経過を報告書に明確に記載するという一連の流れが、この事業を契機として形になったのである。
3.保存対象の見極め
平等院は京都府南東の宇治市の宇治川左岸に位置し、藤原頼道が父道長の宇治別業を改め寺院とし、永承7年(1052)に開かれた。頼道逝去後も御幸があるなど遊興の地として利用され、戦乱や地震、火災を経ながら鳳凰堂とともに庭園が現在も残されている。
大正11年(1922)に史跡及び名勝に指定された平等院庭園は、昭和32年(1957)に設置された木杭護岸が腐朽し景観上の支障を与え中島の石組護岸も不安定化していたことから、平成2~14年にかけて修復事業が実施されることとなった。平成2~3年の試掘調査によって、園池の基本構造が把握され、鳳凰堂前に展開する石組み護岸は、明治期と江戸期に整備されたものであり、その下に中世の礫敷き、さらにその下に平安の礫敷きが確認された。その発掘調査結果に基づき、委員会にて、「今後の発掘調査及び整備について、江戸期の石組み護岸は記録保存をして撤去し、中世の礫敷が確認された庭園遺構を保存、平安期の庭園遺構は、中世の庭園遺構の遺存不良部で確認する。」という方針が示された。これは現状を凍結的に保存するという事ではなく、近世の庭園遺構であっても記録保存のうえ撤去し、浄土庭園としての造営本来の価値を優先するという姿勢が示された画期的な事例と評価できる。
その後、全体整備を念頭に置いた中世期を露出させる全面発掘と部分的に平安期の遺構確認が行われた。発掘調査の成果を受け、平成10~15年に整備が実施された。整備方針は、「平安期の庭園意匠(州浜)に忠実な再現を目指す。」とされ、遺構そのものを露出させることではなく、平安期の遺構から40センチの保護層を設け(整備州浜の厚みを含んで40センチの保護層中に中世の遺構も包含される)、再現の州浜を施工する復元展示の手法がとられた。
施工に関しては、当時成立していた盛土手法で、ブロックごとに版築をしつつ積み増す石列区画盛土技法が取られ、採取が禁じられている宇治川の礫の代用を全国で探し求める等の努力が行われた。庭園の価値という観点から保存する対象を明確に判断した事例である。
4.発掘庭園整備の命題
平城京左京三条二坊宮跡庭園は、奈良盆地の北端部に位置する奈良時代の邸宅遺構であり、昭和50年(1975)に奈良中央郵便局建設にあたり検出された。その後の発掘調査において奈良時代の邸宅遺構の全容が理解できる遺存状況の良好な遺跡であることが判明し、昭和54年(1979)に特別史跡、平成4年(1992)に特別名勝の指定を受け、遺跡を復元的に整備し、古代の作庭・行事・雅宴等について知見を得られる場とすることとなった。また、園池についても露出展示を基本とする事が決まり、委員会で協議、検討が行われ昭和60年(1985)に整備された(以下、当初整備という)。全面発掘によって四時期の変遷が明らかとなり、官営的な建造物に加え園池が作られた時期を指標に、根幹となる園池を露出展示、護岸より陸部を覆土の上、復元展示とする方針が取られた。発掘庭園の核心部を露出展示する方法は埋蔵され安定的な状態にあった遺構が再度、露出されることによって劣化と損傷する可能性があるという史跡的解釈では採用しがたい方針であった。そのため奈良文化財研究所が遺構の保存について、薬品などを用い劣化を抑制する保存科学の手法を用い、試行錯誤を重ね対策を実施するなど当時の英知が結集し、発掘庭園整備の先駆けとなった。
その後、雨水による地盤の浸食と堆積、流れによる目地の流出と護岸の不安定化、護岸や景石の劣化など現存庭園と同様、庭園の経年変化がみられるようになり、平成18年(2006)に発掘庭園として初めての再整備を開始することとなった。当初整備後、どのような変化があったのかを明らかにするため、基礎となる庭園実測図を作成、その動態を関係者とともに把握し、露出展示の園池において人頭大の護岸立石の傾倒と護岸や景石の劣化という課題が明らかとなった。これらの課題を解決するため、前回の修復整備内容の検証から行い、課題発生の原因について検討を実施した。
護岸立石の傾倒については、立石背後の保護層にトレンチを設定、根入が少ない護岸立石が保護層の背面土圧によって前傾するとともに、遺構面と保護層の間を地下水が流れることによって護岸立石背面の土砂が流出し、後傾することが判明した。護岸立石は発掘当初の写真測量図を基に整備時の位置を特定し、土圧と地下水を軽減した上で修理を行った。護岸と景石の劣化については、使用されている片麻岩の組成個体状況によって左右される部分が大きく、問題のある岩石については、今後も露出展示を行う場合、岩石を取り上げ、保存処理薬剤のプールに漬込むどぶ漬けといわれる保存処理を行い、再度設置する必要があるとの判断がなされ、過半の護岸や景石を取り上げる事となった。当初整備においては、岩石を取り外さず現地にて減圧含浸を行い造営の仕事を担保する事としたが、今回このまま露出展示を続けるならば、取り上げ保存処理を行わなければならないという苦渋の判断に至った。岩石を取り上げ処理を行い、再度庭園に据え付ける際には、岩石一つ当たり複数の計測点を設定し、XYZの座標値の差が作業前の計測値と5ミリ以内という精度で現地に戻すことができた。この精度の高い復元の技術力については、評価することができるものの、庭園の骨格となる護岸や景石の過半が微細とはいえ複合的に動いたことにより、発掘された奈良時代そのものという真実性に影響があったともいえる。遺跡として何を残す必要があるのか、その努力の裏に、失うものもあるという事を投げかけた事業でもある。
5.遺跡の何を伝えるのか
旧松波城庭園は、石川県の能登半島の中央部、富山湾を囲む東側の内浦に位置する。松波城は、中世能登国最大規模の荘園であった珠洲郡若山荘の有力武将で、能登守護畠山氏の一族でもあった松波氏の居城とされる。天正5年(1577)の越後上杉謙信による能登侵攻によって、七尾城陥落後に攻略され、6代目当主の義親が自害し落城したといわれる。その後、廃城され加賀藩の御領林として管理された。
昭和36年(1961)旧国鉄能登鉄道が開通、隣接して内浦駅が設置された際に、城跡の一部が軌道として削平され、分断されることとなった。この折、旧松波城が公園化されることになり、昭和37年(1962)遺構の遺存を確認する発掘調査によって、庭園の存在が明らかとなった。昭和39年(1964)に町指定史跡の後、昭和55年(1980)に再度調査が行われ、平成3年(1991)に石川県指定史跡となり、平成18年(2006)からの発掘調査によって、平成24年(2012)に名勝指定を受けた。河原の円礫を小端状に立て流水を表現した他に類を見ない枯山水遺構であり極めて特徴的な庭園(写真2)として評価され、保存整備に向け平成25年(2013)に保存管理計画を策定し、現在、整備事業が進行中である。
整備は、発掘庭園としてのこれまでの成果を踏まえ、遺構の保存対策を実施した上で、園池遺構については露出展示を基本とすることとなった。この検討の中、脆弱な庭園遺構は露出展示に耐えられないのではないかという観点から、復元展示案の検討もなされ、その際、委員から興味深い意見が付された。それは、庭園を再現する場合、自然の河原石の複合体によって構成される景観であることから、同質・同形状の河原石を調達し、それを実物と狂いもなく再現する事は、現実的ではない。そのように作ったものは、似て非なるものになる可能性がある。それであるなら、意匠の正確さの追求という事ではなく、作庭者がどのように庭園を造ろうとしたのかという意図の追求を行い、同じ様な河原石を調達し、同じ技法で復元する方が、より一層その価値は伝わるのではないか。実現には至らなかったが、その遺跡として何が重要であるかを示唆し、かたちに捉われすぎないように創意工夫を加え柔軟に考えるという視点に気づかされた。整備において当該遺産の何が重要であるのかを考える事例となった。
6.技術の確かさ
毛越寺は、奥羽山脈と北上山脈に挟まれ北上川が形成した北上盆地中流域の岩手県南部平泉町に位置する。平泉町は、他にも初代藤原清衡が開いた中尊寺や三代秀衡が開いた無量光院など平安後期の12世紀に奥州藤原氏が90年間栄華を誇った都である。毛越寺は、二代基衡により金堂円隆寺、嘉祥寺等の壮大な伽藍造営が着手され、三代秀衡の際、完成したと伝えられ、東側には基衡の妻が建立した観自在王院がある。文治5年(1189)に四代泰衡が源頼朝によって攻め滅ぼされたが、寺領は安堵された。諸堂は嘉禄2年(1226)に消失、再建されず遺跡となっていたが、江戸期の伊達時代に常行堂などの整備が行われた。明治期、寺領の廃止に伴い、庭園は埋没、園池は農業用のため池として用いられていたが、大正11年(1922)に史跡となり、昭和27年(1952)に特別史跡、昭和30年代からの調査によって、昭和32年(1957)に名勝、昭和34年(1959)に特別名勝に指定され、その後も継続して調査が進められた。調査成果を基に遣水や石組みを露出展示とし、全体の地割を踏襲し、州浜や礫敷きを覆土、保護層を設け州浜再現し、園路を設定し、その他は芝生等によって保護する整備が平成3年(1991)まで実施された。
その後、手厚い管理のもと、良好に守られてきたが、平成23年(2011)4月7日、東日本大震災の余震において、池泉に象徴的に立つ傾倒した立石がさらに6度傾く被害を受けた。放置すると立石が倒れ、損傷する可能性もあったことから、至急、支保工を設置し、修復を行う事となった。前回の整備においては、立石及びその周辺に大きな損傷等がなかったことから修復を行わず現状にて公開していた。そのため今回の修復において、初めて調査をすることになり、立石が傾倒している状況を保持するための構造と被害状況を明らかにする発掘調査を実施した。当初は地中深く立石の根入があるものと予想していたが、地中に入っていたのは、深い所でも30センチ程度、一番浅いところはほぼ根入がないことが判明し、石のバランスを理解した上で、立石が安定的に自立するように据付けられている事が明らかになった(写真3)。
周辺の乱れのない土層状況からこれまでに若干の傾倒の可能性は残るものの、根入が少ない状況で、造営後800年間も自立し続けたという事であり、据え付けた技術者の卓越した技術が分かるものであった。地震被害による傾倒は、揺れによる衝撃で、傾倒方向にあたる接地面の根石とその接点にあたる石が割れたことによるものと類推された。修理においては、安定している地盤を評価し、被害前の測量図と地震によって立石と地盤の間に発生した隙間を根拠に、傾いた6度分を三又とチェーンブロックによって元の位置に戻し、接地面には新たな根石を入れ安定化を図った。発掘調査によって当時の技術水準の高さや見識が判明した事例である。
7.おわりに
上記5つの異なった事例から、発掘調査を基本として、状況はそれぞれの庭園において異なるものの、当該遺産の何を評価し、何を守るのかを検証する事が重要であることに変わりはないと理解いただけるだろう。その上で、どのようにすれば、価値を損なうことなく修復をすることができるのか、所有者とともに学識経験者や行政機関、埋蔵文化財担当者、施工者、設計監理者等が一丸となって、取り組み、創意工夫を加えつつ遺構の状況を踏まえ、適切な修復方法の検討を行うのである。その際、重要な事は、それぞれの専門性と職能を互いに尊重し、己の意見に固執せず全体で検討を行い、合議する事である。また、当初設計に捉われず、明らかになった事象に基づいて、臨機応変に軌道修正する柔軟性や限られた情報の中で無理に解釈せず、新たな資料の検出等、修復の根拠が明白になるのを待ち、次の修復の機会に委ねるという視点も必要である。
将来に遺産をつなぐ役割を担っているという共通理解を醸成し、遺産と真摯に向き合い、対話するように事業を進める事が最も重要である。
参考文献
- 宗教法人醍醐寺(2011)『特別史跡及び特別名勝 醍醐寺三宝院庭園保存修理報告書Ⅰ<園池編>』
- 宗教法人平等院(2003)『史跡及び名勝 平等院庭園保存修理報告書』
- 奈良市教育委員会(1985)『特別史跡平城京左京三条二坊宮跡庭園復原整備報告』
- 平泉町教育委員会(2005)『特別史跡毛越寺後附鎮守社跡特別名勝毛越寺庭園名勝旧観自在王院庭園第2次保存管理計画書』岩手県平泉町文化財調査報告書第96集
- 能登町教育委員会(2013)『石川県能登町 名勝旧松波城庭園保存管理計画書』